ボーヴォワール『第二の性』穽読(1) [「穽読」シリーズ]
岩波現代文庫に「精読」シリーズというのがある。
ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」とかスターリンの言語論とか竹内好の「日本のアジア主義」といった、いささか癖のある古典的作品を「精読」したものである。
ちなみに「精読」とは、
《内容をよく考えながら、細かいところまでていねいに読むこと。熟読。》(明鏡国語辞典)
ということである。
たしかにそうやって読むと、ベンヤミンの文章などはすっきりと理解できた気になる。
わたしは性格的に「精読」できないたちで、というのは「細かいところまでていねいに読む」ことはできるのだが、それを「内容をよく考えながら」することができないのである。どちらかというと、内容とあまり関係ないところばかり「ていねいに読」んでいる気がする。
そうして読むと、ベンヤミンの文章なんかはなにを言おうとしているのだかさっぱりわからなくなる。あちこちにとんでもなく斬新なアイデアやとてつもなく明晰な断言が散りばめられていて、それをうっとり噛みしめているといま「暴力批判論」を読んでいるのか「翻訳者の使命」を読んでいるのか忘れてしまうのだ。最初のページにもどってみると、「歴史哲学テーゼ」だったりする。
これじゃあ内容をよく理解しているかどうかテストされたら、落第まちがいなしだな。なにしろなにを読んでいるかさえわからなくなっているわけだから。
思えば、わたしの人生は教師に叱られてばかりであった。
小学校の低学年のころのことである。
「精読」できないわたしは当時から授業の「内容をよく考えながら」座っていることができず、ある日の昼下がり、授業中の教室であちこち授業に関係のないものを「細かいところまでていねいに」観察していた。
そして廊下側の席であったわたしは、ふと窓から廊下へ顔を突き出して校長先生が向こうからやってくるのを発見した。わたしは無邪気な小学生だったので、校長先生に向かって笑顔で手を振った。校長先生も笑顔のようであったが、心なしか表情は強ばっていた。
というのは、校長は授業の様子を見にきたのであった。ちゃんとした授業が行われているかどうか、廊下を巡回していたのであった。
つまり授業中に廊下から顔を出して手を振ってくるわたしの存在は、教師の授業がちゃんとしていないことの証明のようなものである。一学年一クラスの小さな小学校だったが、授業中にそんなことをしている者はひとりもいなかったようである。
わたしは翌日、「授業中によそ見をして校長先生に手を振った件」について、教師からこっぴどく叱られた。
いまになって考えてみると、教師もたぶん、校長からどんな授業をしているのかと注意を受けたのだろう。
どんな授業をしていたのだろう?
それがまったく内容を思い出せないのである。よそ見をして校長に手を振ったことは、これだけ鮮明に覚えているのに。
よそ見をしていなかった級友たちは、その日のその授業の内容を覚えているだろうか。たぶん覚えていないだろう。
だとすれば、「内容をよく考えながら」授業を受けることと、内容に関係ないことばかりに気をとられていることと、いったいどちらが人生を豊かにしてくれるのだろう?
テストや成績の役に立つ授業の受け方もいいけれど、授業中の静かな廊下でとつぜん顔を出されて度肝を抜かれる校長の顔を見るのもいいものである。まあ、教師に叱られることにはなるけれど。
そういうわけで、わたしはそうやって授業中に窓から首を突き出すような読み方を、授業の内容に集中するような「精読」に対抗して「穽読」と読んでみたいと思う。どちらも読みは「せいどく」で、おなじである。
「穽」とは落とし穴のことである。
「穽読」のルールは、行く先に落とし穴が見えたらかならず落ちてみて、その穴を「細かいところまでていねいに」観察することである。そこではよそ見こそ集中であり、わき道こそ本道である。
まあそんな大げさなもんじゃないんだけど。
わたしがいつもやっているいい加減な読み方そのものだからね。
とりあえずいま必要があって読んでいる、ボーヴォワール『第二の性』(新潮文庫、生島遼一訳)でそれをやってみたいと思います。
名づけて「穽読」シリーズ。
次回から『第二の性』のあちこちに仕掛けられた陥穽について、できるだけ正確に報告してみます。念のため書き添えておけば、それらの報告を読んでも『第二の性』の内容がよくわかるというようなことはありませんのであしからずご了承ください。
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