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複製技術時代の本 [生活と意見]


文化学院の学生から送ってもらった写真。

三島と太宰と安吾の特集で、太宰治では僕の本がピックアップされている。浜松町の駅ビルにある『ブックストア・談』だそうです。ありがたいねえ。

ちゃんと本屋で売ってるんだなあ、僕の本。

三冊目の本であるが、いまだに自分の本が売られている、ということのリアリティがない。

自分の書いた文章のコピーに値段がついて、存在しているということの意味がよくわからないのである。

これは未開人の感覚だな。

有名な話だと思うけれど、人類学者がある未開の集落を調査に行った。そうすると未開人の方も人類学者に興味をもつから、彼はいろいろと未開人にもちものを見せて一生懸命(ヨーロッパローカルの)近代文明のすばらしさを説明した。まあでもそれは、テレビ番組とテレビとビデオデッキの便利さを同時にわからせるようなものだから、ぜんぜん説明は通じず、感心もしてもらえなかった。ところがその人類学者がたまたまおなじ本を二冊もっていて、それを目にした未開人がはじめて驚いた表情を見せた。

ヨーロッパの学者さんにとって、そんなものはめずらしくもないし、なんでそんなに驚かれるのかもわからなかった。

しかし未開人の意見では、まったくおなじものがこの世に二つ以上存在することの必然性が理解できないという。そのときの様子は、文明に感心するというより、まるで悪魔の所行を見るかのようだった、というお話。

正確な出典を忘れてしまったので、脚色とか誤解があるかもしれないけれど、とにかく僕は好きだなあ、この感覚。

たとえば太陽が二つあったりね、自分がふたり以上いたりしたら困るわけでしょ。

もちろん人を困らせるようなことをたくらむのは、悪魔とかその手先とか、そういう悪い人たちである。だからまったくおなじ本をいくつもつくってしまう近代文明も、未開人にとっては悪魔の所行だということになる。おそらく二冊のおなじ本の存在に驚いた未開人は、近代文明の本質を一瞬で見抜いたのである。

それは、「オレのために世界をひとつ寄こせ」ということである。

近代文明というのはそういう主張をする人たちのためのもので、そういう欲望をもつ人たちによって成り立っているのである。

未開人の感覚では、世界はみんなのものだから、みんなのためのものが一つずつあればぜんぜん問題はない。まったくおなじものが二つある方がおかしい。

ところが近代文明では、みんな「オレのために世界をひとつ寄こせ」と言っている。だからおなじもののコピーがたくさん必要なのである。

そうやって僕たちは、文庫本で小説を手に入れ、CDで音楽を保持し、DVDで映画を管理して、世界をひとつ所有した気になっている。現代社会で演劇や話芸や絵画がだんだん廃れていくように見えるのは、その本質がコピーに向かないからだろう。

そう言えば、ファンタジーの世界で「オレに世界を寄こせ」と主張するのはみんな悪いやつばっかりだ。ロールプレイングゲームなんて、そういう悪い奴を倒しに行く話だらけだ。なんのことはない、あれはゲームをプレイしている自分のことなのだ。

すると近代文明は、やはり悪魔とかその手先の集団ということになる。まあそういうところに生きているわけです、僕たちは。

それで未開人の感覚を残している僕としては、たびたびコピーの存在意義がわからなくなって、自分の本を買ってみて確かめてみたくなる。本当に買えるということになると、少なくとも売られていることになにか意味があるということだけはわかるから。

実を言うと、最初の本は二度ほど自分で買ってみたことがある。ちゃんと買えたよ。

しかし自分で書いた文章のコピーを自分で買っている僕の姿は、未開人の目にはなにをしているところに見えるのだろう?


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コメント 2

Y

未開人に携帯電話をペアで渡したらどう解釈してくれるでしょうか?
ちなみに、僕は携帯電話を切ったあと「今のはほんとうにあいつだったのか?」といつまでも考えいることがたまにあります。これは単なるSF的発想でしょうか。
by Y (2006-09-14 00:36) 

tanakasan

コメントありがとう。
「みんな当たり前だと思っている」ことからはみ出す感覚というのは、大事にした方がいいということだろうね。
by tanakasan (2006-09-15 10:31) 

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