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ボーヴォワール『第二の性』穽読(2) [「穽読」シリーズ]

『第二の性』はフェミニズムの古典であるが、まずは軽く、フェミニズム的な興味から読む人がぜったいに注目しなそうなところを引用してみる。

《貴重な品や象徴を愛する気持に限度のない女は、自分自身の姿を忘れてとんでもない衣装をきてしまうことがある。だから、ごくちいさい小娘は、化粧というと、妖精や女王や花に変身することだと思っている。花飾りかリボンをつけると、すぐもう美しくなった気がする。自分がそのすばらしい装飾と一体化してしまうのだから。無邪気な若い娘は布地の色合にうっとりすると、もう自分の顔の色艶のわるさなどとんちゃくしない。こういう大胆な悪趣味は、大人の芸術家や知識人にも見られることで、彼らは外の世界に恍惚となったあまり自分の顔は気にとめないのである。古代織とか昔の宝石とかにすっかり惚れこんで、支那とか中世とかのイメージを心にえがくのに夢中だ。そして鏡にはちらと一瞥をあたえるか、一人合点で見ておくにすぎない。いい年した女がときおり異様なみなりを、自分ではいいと思ってしていることにおどろかされる。環になった髪飾り、レース、きらびやかな衣装、異様な首飾り、これらは気の毒にも彼女らの荒れた顔立ちをいっそう目だたせるばかりだ。なぜそんな恰好をするのかといえば、男を誘惑するのはあきらめ、子供のときのように、彼女達には化粧が一ど無償のあそびになっている場合が多い。》(第2巻、214頁)

すごい悪口だ。

一般的にフェミニズムと言えば、男性の権利とのかねあいで女性の権利を政治的に拡張していくことだから、語り口としては必然的に、不当な権利をむさぼっている男性に対する非難になることが多い。だから自分が不当な権利をむさぼっているということに気がつかない男性に対しては、ほとんど悪口になってしまう。

じっさい『第二の性』にもそういう「男性に対する悪口」的な部分は散見されるのだが、しかし『第二の性』がフェミニズムの古典になったのは、おそらくその「男性に対する悪口」が説得的だったからだけではない。なぜならここに引いたように、ボーヴォワールの「女性に対する悪口」も、相当なものだからである。

ボーヴォワールが気にくわなかったのは、それまでの世界のあり方すべてだった。しかしそのあり方に「否!」をつきつけてみたら、たまたま女性より多く男性に非難をたくさん浴びせる結果になった。

『第二の性』では、つまり「男性に対する悪口」が説得的だというより先に、ボーヴォワールがまず悪口が上手かったと言わなければならないのである。


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Y

おなじく悪口の名手J.P.サルトルとその生涯の伴侶(?)ボーヴォワール。二人の口喧嘩を想像しただけで恐ろしすぎる!(ヒエー!)。永井旦先生が来日する二人のホテルの予約を代行したとき、あえて彼らは別々の部屋を希望されたそうです。晩年のボーヴォワールがサルトルとの日々を回想して「どんなに別々の場所にいても心が離れた夜はなかった」ということを言っていて驚いたことがあります。そんだけ言い切るなら一緒に泊まれよ!と思いました(笑)悪口と共に、美談の名手?
by Y (2006-09-15 22:55) 

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