「ばんそうこう」をなんと呼ぶ? [生活と意見]
ヤフーのヘッドラインに出てたから、見た人が多いかもしれないけれど、「ばんそうこう」にも方言があるそうである。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/katei/news/20060920ddm013100156000c.html
(MSN毎日インタラクティブの記事。しばらくしたらリンクが切れるでしょう)
まあそれだけなら「へえ」という程度の話なのだが、記事にある分布地図を見ていていささかショックなことがあった。なぜならその呼び名を聞けばどんぴしゃりで出身県を当てられるというところがたったひとつだけあって、それがぼくの生まれ育った富山なのだ。
なんでそんなことになっているのだろう?
富山県では、「ばんそうこう」を「キズバン」と呼ぶ。
たしかにそうだ。「キズバン」と口にすると、身体の奥底で眠っていた言葉がむくむくと動き出す感じがする。そう言っていましたよ、むかし。「キズバンちょうだい」って。
ぼくはもう東京に来て十年以上になるから、いまは「バンドエイド」という関東風の呼び方をしている。きっといつかどこかで入れ替わったものだろう。
でも、言葉というのはデジタルな情報のように、上書きされたら消えるという種類のものではない。だから「キズバン」という言葉もぼくのなかにちゃんと残っていて、その周囲には富山での十八年間の記憶がまつわりついている。
キズバン。キズバン。
頭のなかでくり返していると、なにか大事なことが思い出せそうな気がする。
もう失われてしまった大切ななにか。
思い出せないなあ。
そんなもの、なかったのかもしれない。
「もう失われてしまった大切ななにか」というのは、こうしていつも思い出せないということによって「もう失われてしまった大切ななにか」なのである。
たぶん本当に思い出してしまったら、あまりにつまらないことなのでショックを受けるからだろう。
よく言われることだが、人間にとって忘却というのは恩寵だ。
なぜなら、人間というのは忘れたいことを忘れておいて、それが大事なことだった気がするなどといって、あたかも自分の人生には大事なことがあったかのように錯覚して生きる、幸福な生き物である。
ぼくの記憶もあちこちに穴が空いて、かわりに「もう失われてしまった大切ななにか」が埋まっているが、そんなに思い出したくないひどいことばかりだったのだろうか。たとえば酒の席のこととか富山での十八年間とかね。
いかんな。田舎の話は感傷的になるか、それを避けようとするとシニカルになる。
とにかく、記事を見なければもう一生思い出すこともなかったかもしれない「キズバン」という言葉を思い出すことができて、ぼくは少し嬉しかったわけです。
やっぱり感傷的だな。寝よう。
失われたなにか。そんなものありもしなくても、あってほしいと欲してしまうのが我々感傷的な生き物の性ですね。先日、同窓会があったのですが、30分まえまで出席しようかどうか迷って、結局バックレました。やはり、それまでは失われたなにかがあるような気がしていたのですが、一週間ほどあらゆる思索を重ねてた末、「オレはこのさき奴らに会えなくても後悔しないだろうな。もっと言うと、実はどうでもいいとさえ思ってるな」という結論に達しました。そして、次の日になってちっとも後悔していない自分に安心しました。
by Y (2006-09-25 00:37)