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「三田文学」2008年冬季号 [掲載情報]

2008年1月10日発売の「三田文学」冬季号(No.92)に、「文学閉塞の現状——笙野頼子氏に尋ねる」と題する、以下のようにはじまる文章を書きました。

《二〇〇七年の「群像」十一月号に出た、小説家である笙野頼子の「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」という文章は、現在の日本文学における小説家と評論家の関係を象徴するという意味において、注目に値するものだった。なぜならそこで、小説家から評論家に対するほとんど恫喝に近い罵倒が公然と行われ、小説家の意に染まない評論は存在する価値がないと公式に表明されたからである。

同時期に出た、笙野頼子について特集した二〇〇七年の「文藝」冬号を見ても、おなじ雰囲気が濃厚にある。そこで笙野頼子は、「近況という名の、真っ黒なファイル」というエッセイで、その評論家がいかに陰謀に取りまかれたいかがわしい人物であるかということを書いているし、また笙野頼子の文学を高く評価し、そこで「書けない理由」という笙野頼子論を寄せている文芸評論家の蓮実重彦は、おなじ評論家を「『文芸「評論家」』を自称する」人間と名指し、評論家と呼ぶに値しないという身振りで小説家の主張に同意をあたえている。

ちなみにその評論家とはわたしのことであるが、まずこれまでの経緯を確認しておきたい。

二〇〇六年の「群像」新年号に笙野頼子の長篇『だいにっほん、おんたこめいわく史』が発表される。

翌月の「群像」二月号で、高井有一、玄月、わたしの三人が出た創作合評に『だいにっほん、おんたこめいわく史』がとりあげられる。高井有一「作者がいろんなことに苛立っている」「これは笙野頼子というなま身の存在を知らないとわからないことが随分ある小説です」、玄月「読み手をなめているのかな」「知っている人はわかるだろうというような、すごく思わせぶりなところがいっぱいある」、わたし「この作品の場合は、笙野さんの方向性としてはありじゃないか」「おんたこが結局一番よくわからない」などの発言が出る。

同年四月刊行の笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』の、末尾につけられた「八百木千本様へ笙野頼子より」に、創作合評の発言が「おんたこ」の標本として引用され、「現実感覚を喪失」(高井有一)、「偉い老大家に付和雷同する、玄月だか半月だか凡月だか」(玄月)、「理解者みたいな口利いてスカタン抜かすなヴォケ」(わたし)等と書かれる。

インターネット上のブログ「郷士主義!」(http://blog.so-net.ne.jp/tanakasan/)の十月五日の記事で、わたしが「今年の4月に刊行された、笙野頼子さんの『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』(河出書房新社)に出演しました!」「ついに笙野さんの小説に出演することができました。/だってねえ、これまで笙野さんの小説に出てきた文芸評論家と言えば、柄谷行人とか吉本隆明ですよ。いずれも一時代を築いた人たちだ。いっとき論敵であった大塚英志さんなんか、だんだん名前が伏せられるようになっている。/そういうなかでの出演です。やりました!」と書く。

二〇〇七年の「群像」十月号で、わたしが「フェミニズムを越えて」を発表。フェミニズム文学の文脈で、笙野頼子の『金毘羅』をその最高傑作の一つと評価しながら、『だいにっほん、おんたこめいわく史』については、「つねに被害者である女性とつねに加害者である男性という構図が固定化され」るという、現在のフェミニズムが陥っているものとおなじ悪循環に入り込んでいると批判的に指摘。

翌月の「群像」十一月号で、笙野頼子は先の「二次元評論またいで進めっ!」で「フェミニズムを越えて」に反論。また「文藝」冬号の「近況という名の、真っ黒なファイル」では、わたしの論旨というより人格に疑問を提示している。

以上がわたしと笙野頼子の応酬のだいたいであるが、たしかに仲俣暁生がブログ「海難記」(http://d.hatena.ne.jp/solar/)で丁寧に論じているように、小説家が自作を批判されて、それに反論するのは当然の権利である。しかしその反論が論理以前のしろものであり、相手の罵倒に終始しているというのはあまり生産的とは言えない。それらの点をさし引いて、わたしは笙野頼子の「二次元評論またいで進めっ!」に再反論を加えたいと思うが、それは仲俣暁生も指摘するとおり、そこにはこれまでわたしが高橋源一郎とのやりとりで批判してきた、高橋源一郎と保坂和志というふたりの小説家によってなされた「小説は小説家にしかわからない、評論家にはわからない」という主張に結びつく問題がはっきりと現われているからである。》

興味のある方は、「三田文学」最新号を手にとってみてください。

三田文學 2008年 02月号 [雑誌]

三田文學 2008年 02月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2008/01/10
  • メディア: 雑誌


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コメント 152

YONE

昔の笙野頼子の作品ってあんまり読んでないんですけど、なんか文芸誌とか読むたび彼女の書いてることって見苦しいなあって感じます。時には「くだらねえなあ」とも・・・。
by YONE (2008-01-11 20:57) 

YONE

上のコメントは無骨過ぎましたね・・・失礼、訂正させていただきます。「小説家と評論家双方にとっての相互理解がそこまで大切だとは思えない」、というのが一個人として、それも外野側からの意見です。「いやいや、過程が大事なんだよ」と言われたらそれまでなんですが、内輪には変わりないし、そういう風にして文芸誌がますます閉じられた空間へと萎縮していくことを思うと、なんだか読んでいて痛々しいです。
by YONE (2008-01-15 04:21) 

tanakasan

コメントありがとう。
先日は行けなくて失礼。
見ている方もいるようですから、余計なコメントはさし控えますね。
まあ言いたいことは、だいたい評論で書きました。
by tanakasan (2008-01-15 08:40) 

ken

技術者・科学者のみなさんに聞きました
「え~と、皆さんの頭脳によって研究・開発・製造された商品の売上金を盗んで生きている
 宣伝・広告に携わる連中をどう思いますか?」

「政治家、法曹、マスコミといった、一生われわれにたかって生きる、そしてその事実を
 隠蔽する仕事で飯を食っている落ちこぼれがいますがどうですか?」

「大嫌いですね」

「人間社会で一人も通用しない、集団レイプ・殺人・強盗以外に仕事のない、早稲田
 大学の人間が皆さんの金をすぐに盗みますが、どう思いますか?」

「誰が生きていいっていった?」
by ken (2008-02-08 22:43) 

yone

>見ている方もいるようですから、余計なコメントはさし控えます。

また、ずいぶんと含みのあるご返答で・・・(笑)。
 
新潮3月号の対談を読ませていただきましたが、どうして“文学”いう言葉、あるいは空き容器をいつまでも必要としつづけなければならないのかが、まだ釈然としませんでした。いつかじっくり聞かせてください。
by yone (2008-02-22 07:04) 

yone

なんども訂正すみません。ネット空間では言葉が乱暴になりがちなので、これでもうやめておきます。

余計なコメントをしてしまった手前、最近この問題について僕なりの拙い言葉で色々考えていました。

先日の対談を読んでみて、なにかイヤだなっと思ってしまった理由を具体的に書かせていただくと、「近代とポストモダン」「文学と評論」「文学と小説」といった大きな問題をめぐって、双方の認識がかみ合わないまま意見を対立させてしまっていたところです。後半はちょっと感情的過ぎるとも感じました。

一読者の意見として具体的な点をひとつだけあげさせていただくと、「作者と読者」の関係性を「父と子」にあてはめてしまう考えは、今はもう馴染まないように感じました。そういう問題のみを考えても、現在をもっと有意義に語れるのではないかと思いました。










by yone (2008-03-02 03:22) 

玄関

このたびは、意を決してコメントを書かせていただきます。
カフカがヤノーホに言った、(あるいは言ったとされる)、批判に対してはただ耐えるのみで、毒を与えかえさず、黙する、毒は与えると、必ず返ってくる、という言葉を思い出してみます。

笠野先生が再び寄稿なされましたが、黙殺することを望みます。
私は田中先生が、田中先生の固有の仕事を達成せられることを望みます。
by 玄関 (2008-05-07 12:05) 

hill

わたしの感覚では、田中さんと笙野頼子さんとのやりとりは、もうずいぶん昔のように思えます。三田文学に載った田中さんの上記の文章と、それに答えた形の笙野頼子さんの文章をいちおうは目を通しましたが、わたしの記憶でいくと勢いで笙野さんが勝っていると見ました。それは田中さんにもメールで書いたとおりです。それで田中さんはしばらくこの事件から離れたほうがよいと思いまして、そのようにいまなっていると思います。しかし、このブログはまだ生きています。墓場になったわけではないでしょう。わたしもずいぶんこのブログをのぞかなくなりましたが、このごろ田中さんの文章に触れる機会があまりないので、さみしく思っています。あの事件はおいておいて、簡単な書評の掲載情報でも、あるいは率直な今の心境でも、あるいは日録のようなものでも、またこのブログに少し書いてみたらどうでしょうか。時がたてばこのブログからまた新しい芽が出てくるかもしれませんし。ひとつ提言ですが、いかがですか。
by hill (2008-10-12 18:56) 

コンソラータ

田中さん、がんばれ!
毎日新聞の夕刊で、太宰に関するインタヴュー記事読んだ。
艱難、汝を玉にす。
生きてる。
by コンソラータ (2009-07-03 22:05) 

コンソラータ

どんどん行こう。
地獄の底までついてくぞ。

by コンソラータ (2009-07-03 22:10) 

コンソラータ

更新しよう。新しくなろう。何くそ負けるものか。
矢尽き刀折れたおれたちだが、不死身の力が湧いてくる。
笙野頼子何するものぞ。(字はあってんだろうな)

by コンソラータ (2009-07-03 22:23) 

コンソラータ

7日が楽しみだ。
文芸誌の目次を検索してみる。
久し振りだから
もし田中さんの文章が載っていたら
買って読んでみる。
載ってなかったら、まあ
文芸誌は買わん。
現代の怪傑黒頭巾とはおれのことだ。
by コンソラータ (2009-07-04 17:21) 

フランシスコ・コンソラータ

わたくしは祈りの人です。子のために祈る母です。もっとも男性ですが。実子は2人います。あとは霊的養子です。これはいるかどうか自分でもわかりません。子のために心を痛めています。2人の子のために心を砕いています。どうやって慰めのことばをかけるか。どうやったら励ましのことばをかけられるか。祈りの人です。歌を歌います。歌わなくなるかもしれませんが。歌わなくなっても歌います。そんなのわたしの勝手でしょ。
by フランシスコ・コンソラータ (2009-07-04 17:39) 

コンソラータ

1日がミサで始まります。祈りと読書がつづきます。祈りに時間を取られて読書や勉強があまり進捗しません。それに今度はパソコンが入ってきました。でもなんとか祈りの時間は確保しないといけません。「三田文学」はあんまり好きではないです。三田文学会の会員ですが。あんまり読みません。もっとも文芸誌もほとんどまったく読みません。田中さんの書くものは読んでいました。このごろは目に触れないので読んでいないのですが。書いていますか。どんどん書けると思うのですが。このブログの田中さんの長い文章はあまり読みません。あんまり好きでないですから。文芸誌に載る田中さんの文章は好きで読みますが。掲載情報をこまめに書いてください。読む楽しみと書き込む楽しみがありますから。
by コンソラータ (2009-07-05 19:43) 

コンソラータ・ヨキエル

わたしはどこにでも出没します。
怪傑黒頭巾のようですが、悪者ではありません。
祈るために現れるんです。
すべての人の和解のためにやってるんです。
ここは墓場のような気がしましたが、
墓場だろうが、荒地だろうが
どこにでも行きます。
もっともよく消えるのでヨキエルと申します。
消しゴムではありません。
(この冗談はパクリです。ゴメンナサイ)
by コンソラータ・ヨキエル (2009-07-05 21:42) 

コンソラータ

これは論拠のほとんどない勘ですから
見当違いということが大きくあてはまるかもしれませんが
一応書いておきます
田中さんが小説家の反撥を喰ったのは
現代小説の交通整理をしようとお考えになったからではないか
という気がちょっとするのですが
もしそうだとしたら
交通整理ってあっちの道はいい
こっちはダメーって
いうのでしょ
それで小説家としてはそんなのおれたちの自由じゃん
ということになったのではないかなと
ちょっとそんな気がするのですが
ほとんど論争の実態を知らないでいうことですから
あたってなくても許してくださいね 
『江藤淳』や『新約太宰治』には
そんな要素はないですからね
いよいよあす7日ですね
ちょっとドキドキしますね
でもまあいずれ出てくるでしょ
勝手気ままに書きました
by コンソラータ (2009-07-06 17:40) 

コンソラータ

あすは文芸誌の発売日ですが
たぶん10日は「三田文学」の発売日です。
興味を惹くものが
2,3あればいいのですが。
やはり送られてくればパラパラ見ますから。
そちらのほうも気をつけてみます。
田中さんは大学の講義で大変みたいですね。
わたしは定年退職してフリーですから
気楽なもんです。
わたしは影の人、コンソラータです。
by コンソラータ (2009-07-06 22:14) 

コソラータ

1日が終わった。
ロザリオ1連唱えてからコメントを書き出した。
「雌伏三年」という言葉がある。
田中さんはそんな感じだろうか。
昼間は蒸し暑かったけれど
夜になって幾分しのぎやすくなった。
風呂から上がったところだ。
まだ歯を磨いていない。祈りを終えてから
磨くとすれば磨く。
気ままに行く。
この書きこみは不毛な営為だったろうか。

by コソラータ (2009-07-07 23:16) 

コンソラータ

わたしの苦境にあっても
わたしたちの苦境にあっても
主のみ名は賛美されますように
あらゆることが心と霊魂に
神の国、天の国を建設するのに
役立つものとなりますように
マリアさま
家庭生活において、信仰生活において、教会活動において、文学活動において
永遠の命にとって、この世の命にとって
あなたがよりよいと思われるようになさってください
信頼します
すべてを委ねます
あなたが取り計らってください
by コンソラータ (2009-07-16 23:15) 

贋コンソラータ

人にひどい悪口をたたいて
気を滅入らせました
わたくしは贋コンソラータ(?)です
きょう聖体礼拝とロザリオの会でゆるしの秘跡を受けて
慰められて帰ってきました
自称慰め手が慰められて帰ってきたんです
お笑いですよね
でもね元気になりました
要するにわたしがもし人を慰められるとすれば
その慰めはみないただきものだということです
わたしのものなど何もないことがわかりました
せいせいしました
もうコンソラータという自称はやめにしたいところですが
ちょっと未練がましく
コンソラータの前に
贋とつけました
それでも(?)を付け足したりして
もう少しもがいてみます
by 贋コンソラータ (2009-07-25 20:42) 

(贋)コンソラータ

田中さんのブログを
私物化しているような気もしますが
また書いてみます
コンソラータというのは
ル・フォールの短編小説にあります
ナチ独裁の時代に書かれた独裁者批判の小説で(だったと思いました)
中世の一都市(だったと思いました)を舞台にしています
著作集の4で読みました
そしたらコンソラータ・ベトローネというシスターがいたのを
教皇庁の聖職者省の書簡に付随する司祭のために祈った人たちを紹介する文章の中で知りました
偶然ですがどうも偶然のような気がしません
これも偶然ですが
インターネットでシスター・コンソラータについての本が昔出ていたのを知りました
その抜粋が載っていたので
それをプリントアウトしてあちこち読みました
これは現実にあった話です
ル・フォールもこの人のことを知っていたかもしれません
で、これをペン・ネームにして
田中さんのブログを私物化しているわけですね
でも知り合いですから許してくださるでしょう
その人となりを知っている人の書き物を読むのは楽しいものです
ちょっと長くなりましたので
中途半端なようですが
この辺でやめます
ではまた

by (贋)コンソラータ (2009-07-28 19:04) 

小沖

初めてコメントさせていただきます。
以前、大学で先生の講義を履修していた者です。

文学部生でありながら、卒業間近に先生の講義を受けて初めて文学に興味を持ちました。先生の著書もすべて読みました。現在は先生の文章を読める機会が減ってしまい、寂しく思っています。

どなたかも書いていらっしゃいましたが、せめて掲載情報だけでも載せていただけたらと思います。








by 小沖 (2009-08-01 15:54) 

コンソラータ

先日、久し振りに
田中さんからメールが届きました
大学が夏休みに入って
なんとかトンネルを抜け出せそうだ、とありました
待っている人もいるらしいから
わたしが中間報告をしておきましょう
このブログがどうなるかわかりませんが
いずれまた
田中さんの作品にお目にかかれることは確かだと思います
まあ楽しみに待っています
by コンソラータ (2009-08-07 21:02) 

学生

ル・フォールの「沈黙」「大聖堂」「カーニバルの女」「イェフタの娘」「コンソラータ」「犠牲の炎」を読みました。みな短編小説ですが、すべての作品に感動しました。きょう「犠牲の炎」を読んで泣きました。文学っていいですね。小説も捨てたものじゃないですね。コンソラータさん、ありがとう。
by 学生 (2009-08-11 16:13) 

小沖

コンソラータ様

ありがとうございました。
早く田中先生の作品にお目にかかりたいと思います。
楽しみにしています。
by 小沖 (2009-08-12 18:21) 

出口 通









「三田文学」秋季号(№99)が送られてきました。まず田中さんの「『アメリカ』と戦後文学」を読みました。江藤淳という人を、つかず離れず、よく見ているな、と思いました。ほかに[江藤淳と戦後文学」「メロスと友情物語の三段跳び」「井筒俊彦 第三回」を読みました。神秘とか詩とかをあんまり難しく考えるのはどうかなと思います。神秘というのは、空に太陽が照っている、というような、(例が悪いかもしれませんが)、単純なものではないでしょうか。パンを食べて生きる、というような。また、久方ぶりに大学の講義を聴講したような気にもなりました。書評にあった坂本忠雄さんの「文学の器」という本を買ってみました。まあもう少し「三田文学」と付き合うつもりです。ちょっと感想を述べてみました。
by 出口 通 (2009-10-27 20:52) 

出口 通

きょう午前中、祈りの後、ル・フォールの「追放された女」を読んで、また泣きました。小説は今年に入って10編くらいしか読んでいませんが、いい小説は残るし、50年、100年たったとつ国でも読まれるんですね。ル・フォール以外では現代日本の「何もかも憂鬱な夜に」(中村文則)と「郊外」(堀江敏幸)を読んだきりです。三田文学で読んだ田中さんの「『アメリカ』と戦後文学」は、実に今年初めて読んだ評論です。浦島太郎になってきました。でも遊んでいるわけではありません。カトリック・キリスト教関係の本をずいぶん読みました。1000ページを超える大冊は5度目の通読に入りましたし、長短合わせて146編読んでいますから。少し外を歩くように心がけたいと思います。またブログを私物化してしまいそうですが、ゴメンナサイ。あらかじめ謝っておきます。


by 出口 通 (2009-10-29 13:49) 

出口 入

わたしは
考える人である。
頭が痛い。


by 出口 入 (2009-10-31 19:15) 

出口 入

頭が痛い。
それでも考えなければならぬ。
宿命とはそういうものだ。
そうだ、まず、
何を考えるか考えてみよう。

by 出口 入 (2009-10-31 19:24) 

出口

結論は出たか。
いやでない。
それでは出口から入るしかないな。

by 出口 (2009-10-31 19:29) 

出口 通

出口というものは入るものではない。
通るものだ。
出口というものがあるとすれば。

by 出口 通 (2009-10-31 19:36) 

出口 入

入るのも通るのも同じことだ。
出て行きさえしなければ。
俺は猿だから
出口から入る。
by 出口 入 (2009-10-31 19:42) 

出口 某

入ったって通ったっていいけれども
俺だって頭が痛いのだよ。
猿だったらやはり出口から入るだろうし
これがライオンやトラだったら
堂々と通ればいいのだ。
やつらの頭は痛まないのかしら。
出口らしきものはあるが
俺だって頭が痛い。



by 出口 某 (2009-10-31 21:11) 

出口 某




不潔とは妥協しない。
不潔の出口はある。



by 出口 某 (2009-11-05 15:24) 

出口 通


神秘って知性で捉えることのできるものでしょうか。
いくらことばを費やしたところで
捉えることが出来ないのではないでしょうか。
百文は一経験に如かず、ではないでしょうか。
もっともわたしとて神秘を経験したことはありません。
ただ、パンを食べて生きるという、神秘なら
毎日体験していることですが。
もっともふつうはそれを神秘とは言いませんからね。

詩なんかでもよく何か「封印」したとか言いますが
開く気にもなりません。
黙示録は例外です。
唯一封印されたものが意味を持つ書です。
もちろん新約の黙示録ですが。



by 出口 通 (2009-11-05 16:06) 

出口 通


あすは文芸誌の発売日ですね
娘がたまたま本屋へ行く用があるので
ついでに見てきてもらおうかとも思っています
わたしはまだ田中さんで文学につながっている気がしますよ
特に現代文学にはね
風邪をひいて、家にこもっています
江藤淳さんの随筆に
「風邪の愉しみ」というのがあったと思いますが
いまは毎日が日曜日なのでね
文春文庫の合本「一九四六年憲法-その拘束 その他」は
1995年に読みました
同時期に加藤典洋さんの「アメリカの影」なんかも読んで
友人と話し合ったこともありました
だから田中さんの今回の評論は興味深く読みましたよ
もっとも今年読んだ評論第1号ですから
もうなんともいえませんね
田中さんのブログを日記にしている観がありますが
まあ許してください


by 出口 通 (2009-11-06 19:25) 

コンソラータ


文芸誌四誌に田中和生さんの評論は載っていなかった。
別にがっかりしているわけではないが
何かさびしい気もする。
11月から新聞は朝日になったので
一目瞭然である。
広告が四誌並んでいるから。
(うちでは朝日と毎日を1年ずつ交互にとっている)
田中さんはきっと雌伏の時を過ごしているのだろう。
捲土重来を期しているのかもしれない。
もっとも今度掲載されるときには
文学というものに関心がなくなっているかもしれない。
それではやっぱり困るな。
わたしはまず文学によって救われたのだからな。
まだ若いころ。
少しずつ買ってみた『文学の器』を読み継いで
文学というものに関心をつなぎとめておかないと。
ル・フォールも著作集の4を全部読んだら
次のを買おうと思っている。
残っているのは詩集と中編1つを除いて
代表作と目されるものは
30年ほど以前に一度読んでいるが
内容は忘れているので
読むのが楽しみだ。
いまは祈りの生活といってよい。
でも文学から受けた恩を忘れたくはない。
好きな時に本を開き
好きな時に読む。


by コンソラータ (2009-11-07 18:52) 

コンソラータ


出口という人が何かいろいろ書いているが
みな陰気なジョークみたいなものだ。

不潔とは妥協しない
不潔の出口はある

これだけがめぼしいものであるな。
本当の文学は不潔ではない。
文学の香りがする。
「三田文学」の「無限のエコー」なる
詩学講義を読みだした。
まだよくわからない。
少しずつ読む。
「文学の器」の中の一章と響き合っているらしい。
世の文学とも付き合いを続けられそうだ。


by コンソラータ (2009-11-07 21:46) 

コンソラータ


今夜は
わたしの愛読書を披歴したくなった
このブログの管理者は
認めてくれるだろうか

まず旧約の「詩編」
これは1990年から2003年にかけて
28回通読した
あかし書房刊行の典礼委員会・詩編小委員会が翻訳したもので
1から150まで朗唱していくのだが
一つの詩編を5回も6回も朗唱すること たびたびであった
それから一つの詩編を最低2回は朗唱した
それを1から150までやって1回の通読とする
それを28回繰り返した
好きだからというだけでなく まして研究するためでもなく
生活上のニーズに迫られて朗唱した
生活上の困難、生き難さ、疎外感などを
それで克服していくためだった
音吐朗々と朗唱することで 大いに力づけられ 鼓舞されたのだった

それから「キリストにならって」
この書はいろいろな訳で読んだが
わたしが愛読したのは
旧中央出版社(現サンパウロ)刊行の荻原晃訳
12回通読したが
そのうち7回までこの訳で読み
2004年から2006年までに5回熟読して
生きる力とした

いま愛読しているのは「聖母から司祭へ」(非売品)という本で
2007年から読み始め 2009年の8月15日から
5度目の通読に入っている
まえがきにあたる部分が40ページほど
本文だけで1071ページある

聖書は別格として
この3冊がわたしの愛読書といえる
この夜
わたしの愛読書について書きたかった
このブログの管理者は (友人は)
許してくれるだろうか


by コンソラータ (2009-11-08 22:37) 

コンソラータ


おとといの晩
わたしの愛読書を披歴したが
不思議なことで
「詩編」は28回以降読んでいないし
「キリストにならって」もぱったり読まなくなった
顕著なのは「ホプキンズ詩集」で
これも愛読書といえると思うのだが
1998年の1月から4月末まで三たび熱を入れて熟読したのに
その後幾たびかか読もうと試みたにもかかわらず
興に乗らないで
そのままになっている
だから「詩編」でも「キリストにならって」でも
愛読書は? と仮に問われたとしても
いままるで読んでいないので
挙げるのは何となく憚られる
愛読書とは何だろうと改めて考えてしまう
好きな本・愛する本ならまだ挙げられるのだが
数年に亘って何回も読んで
生きる力、生きる糧とした本なら
あの3冊だろうか


by コンソラータ (2009-11-10 19:30) 

コンソラータ


『文学の器』の中の鼎談の一つ
「太宰治『斜陽』―巧緻の現代性について―」を読んだ。
20ページくらいで気楽に一章が読める。
これで三つ目だ。
この二人の女性作家のものは
柳美里さんの『命』四部作「命」「魂」「生」「声」を
5年前に文庫本で読んだだけであとは知らない。

……と書いてから思い出して読書録をのぞいてみたら
『仮面の国』『世界のひびわれと魂の空白を』『魚が見た夢』『言葉は静かに踊る』を2003年に
『自殺』を2004年に読んでいる。『命』四部作も2004年だ。
どうも最初に読んだのが
読書録に記されている「見張り塔から、見張られて」と「『朝日新聞』社説と『大江健三郎氏』に問う」と「『石に泳ぐ魚』裁判をめぐる経緯について答える」という三つのエッセイであったらしい。
柳さんにずいぶん肩入れして読んだのを覚えている。
また読書日記のようなものが斬新で特異なものであったことも覚えている。
なぜ忘れていたのだろう。
柳さんがずいぶんつらい険しい人生を歩んできたことも思い出した。

太宰は私も若いころ好きだったので
ちょっとページを繰ってみた。
副タイトルなぞ吹っ飛んでしまうような
楽しいおしゃべりがなされていた。
口角泡を飛ばして何かを論ずるよりも
ずっと楽しかった。
お二方とも14歳で太宰を読み始めたというのでびっくりした。
私も太宰を読みだしたのは確か中三の頃で
私は早生まれだからやはり14歳である。
こんなところがあるから楽しく読めたのかもしれない。

このブログの書き込みを始めて
思わぬ展開になって長い時間を使った。
まとまりもつかぬが
感慨深いものがある。


by コンソラータ (2009-11-11 22:48) 

コンソラータ

ル・フォール著作集4で、「別世界の人 カリタス」を読んだ。
神の愛を一身の上に体現した女性の物語である。
目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。
私たちもこの神の愛を現存させるように招かれている。
時代背景が貴族階級の没落から第一次、および第二次世界大戦、その後
のドイツなので、緊張感がある。
特に前半は小説の形をした詩だ。
ことばが詩なのだ。
ヒトラー時代の描写も点綴されていて興味深い。
ル・フォール自身がその時代のドイツを生き抜いた人なのだから。
残る「愛のすべて」「無辜の子ら」「天国の門」「ピラトの妻」詩集「教会への讃歌」は
1978年1月末から2月末にかけて読んでいる。
いずれ読むのが楽しみだ。
マリアは言われる
「愛とまじわりの具体的な態度をとりなさい」と。
こんな簡単な言葉で示されることの実践が
私にとってなんと難しいことか。
私たちはまだ途上にある。
by コンソラータ (2009-11-13 20:39) 

コンソラータ・出口通


私は少し
田中さんのブログを
使いすぎたような気がする
しばらく
休筆する


by コンソラータ・出口通 (2009-11-14 15:08) 

一文学徒





午前零時を挟んで、ル・フォールの「愛のすべて」を読む。
人への愛も神(へ)の愛も一つの愛であるということを描き切った
感動的な結末で読ませる代表作といっていい。
はじめて読むような感じがした。
ル・フォールは読者を裏切らないから
折を見つけて第2回配本第一巻長編「ヴェロニカの手巾」を買っておく。
具合の悪い時に読んで、カタルシスが起こった。
正味57頁。
素晴らしい作家だ。


by 一文学徒 (2009-11-27 01:04) 

フランシスコ 閑人









田中さんのブログに毎日決まってアクセスする人がいる。
どういうことなのか測りがたい。
わたしはいま暇だからちょっと書き込みをしてみる。
去年の7月から10月にかけて
11編の詩をものし、そのうち10編を
「朝ミサのある日々」というタイトルで括ってまとめてみた。
もう詩など書けないと思っていたのだが
おととい「道」という詩が書けた。
-「ヴィジョンの街」-というタイトルで書いていってみようかと思う。
去年の残りの1編と「道」でいまのところ2編である。
はたしてつづくかどうかまるで見当もつかない。
2月に「ヨハネによる黙示録」を読んだ。
これからも聖書の勉強をつづけてしたい。
それが詩の滋養になればよいが。
世俗の本では、西脇順三郎「旅人かへらず」の収録されている文庫本と
杉本秀太郎という人の著した「伊東静雄」という文庫本を買った。
読めるかどうかわからない。
祈りの時間が多いので。
ちょっと暇があったので書いてみました。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-10 13:12) 

フランシスコ 閑人

疲れた。
このブログは泉である。
「半病人」みたいな(とかつていわれた)わたしみたいな人間にとって
書き込む場所があるというのは
恵み以外の何物でもない。
ブログの管理者には申し訳ないが
自分勝手な書き込みを赦していただこう。
書くというのは、どんなことでも、わたしにとって救いなのだ。
「三丁目十九番地」という詩をきのう書いた。
題は詩らしくないが
題とはほとんど関係のない詩である。
そうではあるが作者にとっては意味があるのだ。
疲れて祈りもしていなかったが
こう書いているうちに心が鎮まってきた。
このブログは恵みの泉である。
ありがたい。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-13 22:13) 

フランシスコ 閑人

疼く歯を磨き
いま風呂を浴びてきた。
これで具合さえ悪くならなければ、あす主日のミサにあずかれる。
こういう展開は思わぬことだった。
やはりわたしは愛されている。
それでは愛されるにふさわしくなろう。
ブログよ、ありがとう。



by フランシスコ 閑人 (2010-03-13 23:48) 

フランシスコ 閑人

きょう午前2時ころ
「春の嵐」という詩を書いた。
3月に入って3作目の詩だ。
自分の詩の評価は自分ではよくわからないものだが
まあ何となくいけそうな気がする。
それときょうはヨハネ・パウロ二世の回勅『教会にいのちを与える聖体』を
読み終えた。
ご聖体に対する信仰が深まった気がする。
もう日曜日はそうそう休みたくない。
それとイエズス・マリアのブルノ著『十字架の聖ヨハネ』を読みだした。
1980年に1度、息子の生まれた1989年に1度読み、
今回で3度目だ。
ただミサに関するレポートを書く宿題があるので
今回は長期戦で行く。
回勅によってご聖体に対する信仰が燃えている。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-16 18:42) 

フランシスコ 閑人

きょう少しずつ読んだ本。
伝記『十字架の聖ヨハネ』
ヨハネ・パウロ二世教皇の使徒的書簡『新千年期の初めに』
パウロの書簡『コリント人への第二の手紙』
みな私にとっては重要なものばかり。
こう書き込んでみるだけで楽しい。
誰かの目に留まると思うからだろうか。


by フランシスコ 閑人 (2010-03-17 18:45) 

フランシスコ 閑人

16日から18日今朝がたにかけて
教皇ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡『新千年期の初めに』を読了した。
2001年に初読、今回は2度目である。
私の癖で、気になっているところが、心に残る。
たとえば
「こうした問題の倫理的、社会的な側面は、キリスト教的なあかしにとって欠くことのできない要素を示しています。ですから、内向きで個人主義的な霊性への誘惑は退けなければなりません。」
「行動による愛は、言葉による愛とは比較にならない強い力を持っています。」など。
もちろん文脈の関係もあるし、一面的に理解はできないが、心にとどめて気をつけようと思う。
敬愛する教皇様のことばだから。
次はすぐにではないが教皇庁文書『キリストからの再出発』を読みたい。


by フランシスコ 閑人 (2010-03-18 19:58) 

フランシスコ 閑人

『聖母から司祭へ』はもう数ページで800ページに届く。
教皇ベネディクト十六世の『霊的講話集 2008』も266ページまで進捗した。
きょうは伝記もコリント二も少しずつ読んだが、
さすがに老いの目が疲れた。
風呂からあがり、またパソコンの前に座っている。
静かな夜だ。
休まる夜だ。
三田文学の懇親会に久し振りに行ってみようか、などと考えている。
なんといってもわたしの文学的故郷のようなものだから。
たしか4月10日だったかな。
これから少しお祈りして寝る。


by フランシスコ 閑人 (2010-03-18 22:37) 

フランシスコ 閑人

きょうは教会で「十字架の道行」があって
イエズスの歩かれた跡をたどった。
帰宅してから「悪い声」という4作目の詩を作った。
わたしはカトリック教徒として生きているから
書く詩もカトリック的になる。
自然と宗教と文学が渾然一体となる。
あとは祈り。
朝の6時からいつもの決まった祈り1時間半弱。
午後の三時の祈りから神のいつくしみへの祈りの花束まで。
合間にロザリオを何連ずつか挟んで。
そしたら書き込みをしたくなった。
本はまだ開いていない。
目が休まっていい。
明るい日差しが部屋に差し込んでくる。
静かな午後だ。


by フランシスコ 閑人 (2010-03-19 15:32) 

フランシスコ 閑人

文学と宗教。
この二つの矛盾するような相容れるようなものに
わたしは足を突っ込んでいる。
陥穽にもなり同時に救済にもなるこの二つのもの。
わたしはできればこの二つのものを融合させたい。
いま宗教のことばは
新しい文学のことばとなりうることを信ずる。
また文学のことばは宗教のことばともなりうることも。
詩と信仰、信仰と詩。
あと10年はやってみたい。
かつてわたしは自分が贋者だと思えなかった。
だがまだ本物だと決まったわけでもない。
あと10年。
余生だなどと言ってはいられない。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-21 13:07) 

フランシスコ 閑人

さきほど
「主日のミサ」という詩を書きました。
ご報告させていただきます。
フランシスコ拝


by フランシスコ 閑人 (2010-03-21 16:03) 

フランシスコ 閑人

私もよほど暇人である、また書き込む気になったのだから。
今日はいい天気で行楽日和だが、家にいて祈りや読書ができるので、
外出せずともよさそうだ。
すべてを肯定する気持ちと恵みをいただきたいとマリア様に願っている。
まあ私に関することだけだけれど。
応接で何を読もうと思っているのかというと
件の伝記『十字架の聖ヨハネ』『霊的講話集2008』のつづき。
後者なんぞはこぞの八月から読み始めたのだ。
気楽なものだ。
さっきロザリオをちゃんと終えた。
いずれこのブログがまたちゃんとしたものになるよう願ってる。


by フランシスコ 閑人 (2010-03-22 15:05) 

フランシスコ 閑人

夕食を食べ、お告げの祈りと晩の祈りを済ませ
パソコンの前でくつろいでいる。
イエスがご自分を明かされたように
「柔和・謙遜」な者になりたい。
なぜかというと
わたしはまだ十分に柔和・謙遜な者でないからだ。
このひとことをとっても
いかに福音を実践することが難しいかがわかる。
努めてはみるが自力のみでは無理だ。
恵みがなければ。
祈りあるのみ、かな。

by フランシスコ 閑人 (2010-03-23 18:55) 

フランシスコ 閑人

わたしにはわからないことだらけ。
でもそんなことはどうでもいい。マイ・ペース。
きょうは、午前中は教会での「十字架の道行」、午後おもに読書。
『十字架の聖ヨハネ』の伝記、第八章を読んだ。
111ページまで。
フランスのイエズス・マリアのブルノというカルメル会士が著した、
十六世紀スペインの、神の愛に燃えた聖者の伝記。
なぜ「十字架」なのか。
それほどまでに人を愛された、その人とは何者なのか。
「私たちの王は、生まれたのはベトレヘムの貧しい馬小屋で、亡くなられたのは十字架の上でした。」(大テレジア)
極度の貧しさ。
それが私たちを辱めない。
むしろ啓発され、鼓舞される。
良書である。
傑作と言っていい。
繰り返すが、私が読むのは三度目である。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-26 19:30) 

フランシスコ 閑人

教皇ベネディクト十六世の『霊的講話集 2008』を読み終えた。
このシリーズは最初の『2005』、それから『2006』『2007』と続けて読んでいる。
読みやすく含蓄のある『講話集』である。
また今年の7月頃に『2009』が出るであろう。
それも楽しみに待っている。
ちょうど8ヵ月くらいかけているが、つまらないからではない。
これで読みかけの本の1冊が終わってなんとなくすっきりしている。
いまお告げの祈りをして、昼食をとった。
みんなのための本だから
みんなに読んでほしい。
イエスは文字通り「すべての人」をあがなったのだから。
カトリック中央協議会のWEBサイトから申し込める。
by フランシスコ 閑人 (2010-03-30 13:00) 

フランシスコ 閑人

さきほど「老後の散策」という詩を書いた。
3月に入ってこれで6編目である。
なんということもない詩だが。
カトリック中央協議会のホームページをのぞいたら
『霊的講話集 2009』が出ていたので
さっそく注文した。
ゴミ置き場の掃除当番に当たっているので
それをやってきたら疲れた。
散歩の後だったもので。
昨年の「朝ミサのある日々」10編をひとくくりにして
今度のもひとくくりにして
いくつかひとくくりにして一つの詩集にしようかな、と思っている。
全体を「ヴィジョンの街」という感じにしようかなと。
まあ書けたらの話だけれど。
死後わたしは人々から愛されるような気がする。
もちろん気がするだけだが。
でも生きている間に少しは世にも出るかもしれない。
わからない。
神様には愛されていると思う。
マリア様とともに生きる。

by フランシスコ 閑人 (2010-03-30 19:15) 

フランシスコ 閑人

いまコメント欄の前でぼっとして休んでいる。
さっきまでは家で留守番で気がくさくさしていた。
何か書けばいいかとも思って
コメント欄の前でしばらくぼっとしていたのである。
こうして書き始めてみると
心が集中してくるのがわかる。
ありがたい。
きょうは聖木曜日だった。
夜7時の主の晩餐のミサにあずかるつもりだ。
きのうは小さな葬儀ミサがあって
わたしはイザヤの預言を朗読させてもらった。
家内は午後4時ころまでには帰ると言っていた。
まだだいぶある。
わたしはちょっと途切れていた『十字架の聖ヨハネ』を読んだり
祈りをしたりしようと思う。
132ページからだが
なかなか手がつかなかった。
でも今回は長期戦とあらかじめ決めていたので
また入り込んでいくだろう。
『聖母から司祭へ』は850ページくらいのところだが
ロザリオを唱えるときに読むので
まあ毎日少しずつ。
『孤独を生き抜く』という本を買った。
前に講談社現代新書に入っていてけっこう出たらしい。
タイトルに惹かれて買った。
いつになるかわからないがいずれ読みたい。
それではまず祈りから入ろうかな。

by フランシスコ 閑人 (2010-04-01 13:11) 

フランシスコ 閑人

いま「主の晩餐」のミサから戻った。
行く前は体の具合が悪く、炬燵で寝そべっていたが
このままでは行けなくなってしまうと
行く直前に起きだして支度を始めた時には
体の衰弱感がとれていた。
顎が痛いのが弱ったが、行くに差支えはなかった。
ミサにあずかれてよかった。
イエス様、マリア様が招いてくださったのだと思った。
ミサは私たち信徒があずかるのだが、
主の奉献に合わせて私たちをも奉献するのだから
とりもなおさず全人類の救いためにささげるミサでもある。
そういう自覚を持ってあずかってきた。
やはりミサはいい。
ブログさん、書かせてくださってありがとう。

by フランシスコ 閑人 (2010-04-01 21:29) 

フランシスコ 閑人

きょうは聖金曜日、
「主の受難」のミサにあずかってきた。
帰ってから珈琲を飲み、チーズの入ったパンを食べた。
カトリック新聞が届いていて
教皇様が聖職者による性的虐待の被害者に直接謝罪した書簡を
アイルランドのカトリック信者に送ったという記事が載っていた。
教皇様に対する不穏な非難の声もあるらしい。
教訓と模範とによって特に司祭方を導いてくださるように祈った。

「主の受難」、とりもなおさず、全人類のあがないである。
by フランシスコ 閑人 (2010-04-02 21:26) 

フランシスコ 閑人

この2、3回、宗教関係のことだけ書いている気がする。
このブログはれっきとした文芸評論家のブログなので
文学についても書き込まなければ失礼にあたるだろう。
したがって文学に関する事柄が思い浮かんだときに書くべきだろう。
いまは聖週間なのでつい文学から離れてしまった。
宗教と文学の一致が私の目標なのだから。
幸いな場所を専横してはいけない。

by フランシスコ 閑人 (2010-04-03 16:16) 

フランシスコ 閑人

わたしの場合
宗教のみだと息苦しい
しかし信仰があるから文学のみというわけにもいかない
文学が宗教を検分し
宗教が文学をたださなければ。
そう簡単に言えるものでもないが。

ただ弱った
もうそんなに幅広く本も読めない
第一に文学によって救われ
第二に宗教(信仰)によって救われた
それは確かだ
わたしの生涯が
文学と宗教の一致を求めているのだ
by フランシスコ 閑人 (2010-04-08 15:22) 

フランシスコ 閑人

「ヴィジョンの街」というような詩集を書こうかなと書いたが、きのう「ヴィジョン」を「幻視」というはっきりとした意味で使っている書き物を読んだので、誤解されるといけないから「ヴィジョン」ということばを使わないことにした。わたしはただわたしの生きている街を書き、そこにわたしの多少の理想を書きこもうかなと思っただけであるから。(もちろん幻視という意味でヴィジョンということばを用いているその書き物は本物である。)むしろ「生きる街」とか何とかにしたほうがいいだろうと思う。もっとも書けるものかどうか分からないが。日本の詩をもっと読みたい。中央公論社(旧)の「日本の詩歌」全30巻と別巻1を持っているから。まだ読んでいない詩がたくさんある。

十字架の聖ヨハネやあまたの聖人は
脱魂とか(霊的)恍惚とかについて述べているが
わたしはそういうのが怖い。
どうやら煉獄を通らなければ
天国へ行けそうもないな。


by フランシスコ 閑人 (2010-04-12 19:29) 

友人A



実は「文學界」9月号を買って、10月13日に、田中さんの「『戦後日本」的世界の記号的な『私』」を、読んだのだが、さしたる感想も浮かんでこなかった。大体、新芥川賞作家赤染晶子なる人物の名前とも初対面だし、現代文学の趨勢についても100%の無知である。興味の覚えようがない。現代詩とは離れた所でほそぼそと詩を書いているが、それもどんなものかわからない。もう評価など、どうでもいい。「主の気息によって生きよ」あたりまでは、まだ少しは自信もあったし、色気も多少はあったが、それも殆どなくなった。2009年に「朝ミサのある日々」10編を書き、次に「二〇一〇年三月」というのを6編、書いた。そしてこの10月に入って、1編、書いた。これは自分で書くのが楽しみ。将来は『生きる街』としてまとめようと思っている。まあ、思っているだけだが。そこで文学とかろうじて繋がっている。後生の読者が読んでくれればうれしいし、そうでなければ、死後、紙くずとして捨てられるだけだ。それでもかまわない。ただ確認したかったのは、私の中で、文学と宗教が一致すればいいな、ということである。
by 友人A (2010-10-15 09:37) 

友人A




実は宗教が悲鳴をあげている
文学も悲鳴をあげている
つまり私自身が悲鳴をあげている
文学に興味が薄れたならば文学などと縁を切ってしまえばいいのだが
詩がまだ残っているから
詩が救済の一手段として残っている以上
縁は切れない
宗教一本でやるには私はまだ未熟だ
希望の一念、信仰の一念で
いま宗教と文学をかかえている


by 友人A (2010-10-15 12:29) 

友人A



修羅の中を歩いている
俺は一人の修羅なのだ


by 友人A (2010-10-15 12:33) 

友人A



八日間風呂に入っていない

すべてを投げ捨てたい

目が弱っている

神経が昂ぶっている

こんなことを書く気はなかった

私の苦しみは私の苦しみだ

それ以上のものでも、それ以下のものでもない

聖マリアに祈る

風呂に入って祈りさえすれば消えてなくなるような苦しみか

それが苦しみか
by 友人A (2010-10-15 13:02) 

友人A



『生きる街』詩集
70歳までにはまとめたいな100編前後で
どこといって取柄もない
何の変哲もない詩
お金が残っていたら(たぶん残っていないだろうが)
最後の詩集としてまとめたいな
私は詩人だった
他の何でもなかったのだからな
教員でもなかったし、もちろん作家なんかなれるはずもなかった
でも詩人になら赤ん坊にでもなれる、って
別れた友人が言っていた
記憶だが
別れた
それだけのこと
今でも祈っているよ
あなた言ってただろ「俺は一人でもやる」って
何をするんだか知らないけれどよ
私はマリア様のお慈悲にすがるよ
ひとりじゃできない
自分で納得のいける詩がこれから書けるといいのだけれど
今までの詩が玉石混淆だったと
自分では思っているから
あなたは私の詩を認めてくれた
それは感謝しているよ
これからの詩は
いいとか悪いとか考えないで書く
だいたい60すぎていい詩を書こうなんて
虫がよすぎないかい
でも自分で気に入った詩を書きたいな
詩人として生まれたからには

by 友人A (2010-10-15 13:26) 

友人A




私はマリア様のお慈悲にすがるよ
あいつはバザーの手伝いを何もしない、って言われたってね
いままでずいぶん気に病んだけれど
私は厚顔でいく
今度バザーのある日は四ツ谷の教会のミサに出るよ
もし出られたならばな
厚顔でいけたならばな
徐々に気持ちも落ち着いてきた
ありがとう ブログよ


by 友人A (2010-10-15 13:40) 

友人A



わかった。
どのくらいメールしなければいい。
今年いっぱいか。
来年の3月までか。
父より

というメールを送信しようとして思いとどまった。
助かった、とりあえず。
午後3時に「神のいつくしみのチャプレット」という祈りをした。
これからロザリオをする。(たぶん)
詩は?
詩はこういう時には書けない。
救いは祈りにある。
救われた時、感謝の祈りが書けるとすれば書ける。
たいていはそうだが…。
そんなふうに決まっているわけじゃない。
一人での祈りだ。
孤独な祈りだ。
それが生み出すのは詩ではない、救済だ。
もし救済がもたらされるとすれば。
もたらされるだろう。信じているから。
ただ友はイエスのみ。
頼るものは母マリアのみ。

ここに、これを記す。


by 友人A (2010-10-15 16:03) 

友人A




すべてを書きつくすことはできない。



by 友人A (2010-10-15 16:06) 

友人A



夕日が沈んでいく。
あたりが薄暗くなってきた。
重苦しい気持ちの底に
ひとすじ母マリアへの信頼がある。
こういうのは宗教のことばとしては擦り切れているが
文学のことばとしてはまだ生きる。
そこに文学の可能性がある。



by 友人A (2010-10-15 16:16) 

友人A



過去はもうありません。
現在だけ私のものです。
だからみな忘れましょう、
忘れて祈りましょう。
マリア様がみな取り計らって下さるでしょう。
いつこの地獄から抜け出すことできるのか。
目に見えています。
その証拠に、もうここは地獄ではありません。
祈りは続いています。
まず私の心から
次に世界中から
地獄を追い出しましょう。


by 友人A (2010-10-15 16:39) 

友人A



疲れた
風呂にも入りたいし
お腹もすいてきた
二階へ行きます
ブログさん
ありがとう



by 友人A (2010-10-15 16:46) 

友人A



いちおう曲りなりにも祈りました
もうあとは何も考えず
ただ心の柔和と平和を保つようにして
過ごして行くだけです
ここが肝心です
祈ったのだから柔和・謙遜の徳を忘れないようにしなければなりません
心を平和に保とうと志向しなければなりません
問題はすべて心のしこりから来るのです
祈ればできるはずです
できなかったらもう一度祈ります
マリア様にすべて委ねます
このことばを心底、実行できますように



by 友人A (2010-10-15 18:47) 

友人A



心の平和が訪れる
でも体や視力が弱っているので
まったき平安というわけにはいかない
しかし地獄は一掃された
もう二度と地獄に占領されないよう気をつけて行く
心の明るさ、人への愛
これが大事だな
詩が始まるとすればここからなのだな
やはり信仰の方が上か
信仰は木の枝で
詩は実りというところかな
宗教が土壌とすれば文学はそこに咲く花であるか
昨今の花はどうもいびつだ
人のことは言えないがね
やはりよい土地にまかれないといけないのではないかしら
だが文学徒が文学を云々するのは
余り褒められた図ではない
口を慎もう


by 友人A (2010-10-15 19:24) 

友人A



そもそも田中さんの小論をネタにして
その後は全く自分のことを書いてしまった
でも有意義な時間を持てた(勝手ではあるが)
あと風呂に入りさえすれば
今夜か明日
心に翳りのないこと
ここでこれを天国といってもよかろう
エゴや怠慢があっても
心が明るければ
消えてしまう
気にするからいけないのだ
賢人も凡人も愚か者も
神から見れば皆同じ
夜まわりのひとときにすぎない

(最後の一行、意味不明)
by 友人A (2010-10-15 19:54) 

友人A



心の平和なんて、いつも保てるかい
お前みたいな人間が

崩れたら建て直すだけさ

ご苦労さんなことだな

何べんでもやり直してみせるよ
自信はある
もう余計なことは言うな


by 友人A (2010-10-15 20:47) 

友人A



何べんでも何べんでもやり直してみせる

祈りとその心意気で十分だ

いいか お前がどんな画策をしても

私は負けない

一人じゃないから

マリア様がついておられるから

今夜は風呂はよして

ロザリオしよう


by 友人A (2010-10-15 20:57) 

友人A



ロザリオするかどうかわからない

風呂に入るかもしれない

今夜はこれで

戦いは残っている、つづく





by 友人A (2010-10-15 21:14) 

友人A



悪夢を見た
それが夢だと分かるまでに時間がかかった
夢と分って
ある現実との関連に思い至った
やっていけるか やっていけるのか


by 友人A (2010-10-18 15:51) 

友人A



なぜ信頼しない
教会と共に生きる
当然バザーにも参加するということだろう
それができない
できなくてもいいじゃないか
いずれできるようになる
教会に溶け込んでいって教会と共に生きる
自然とそうなるのを待て
そんなに気にするな
信頼しろ マリア様を


by 友人A (2010-10-18 16:01) 

友人A



教会と共に生きるとは
生易しいものでない
特にお前みたいな者には
お前は病気を持っている
そう医者が言っていたではないか
それでここまでやってきたのだ
ただでさえ大変なことなのに
結果は気に病まずに
正しく生きようと努めよ
それでいい


by 友人A (2010-10-18 16:11) 

友人A



もう午後4時をすぎたのか
私は留守番だ
家内は腰を痛めて街中の温泉に行っている
いずれもう帰るだろう
気持ちも落ち着いてきた
聖書を読むつもりだ
毎週木曜日聖書を読む集いに入っている


by 友人A (2010-10-18 16:17) 

友人A



聖書を読むのと祈りとを比較すると
どうも祈りの方に行ってしまう
読書も生活の柱なのに
民数記、三日間で所定の部分を読めるかどうか心配だが
どうもロザリオの方に行ってしまう気がする
でもなんとかなる
そんなに心配しなくてもなんとかなるもんだよ
歯医者の予約もし直したし
みんなうまくやっていそうだし
いまお煎餅をボリボリ食べた
お前には祈りが必要なんだよ
読書の事、あまり気になさらずに


by 友人A (2010-10-18 16:45) 

友人A



きょうもありがとう
ブログさん
お蔭で気持ちが落ち着いたよ
またね


by 友人A (2010-10-18 16:48) 

友人A



頭痛がします。
お告げの祈り、守護の天使に向う祈り、晩の祈り、を終えました。
風呂はおととい入ったのでだいじょうぶです。
昼寝の後、悪夢を見ました。
現実と夢の区別がなかなかつきませんでした。
頭痛がちょっと不快です。
嫌な夢でした。
いい夢を見たことはありません。
祈りたいと思います。
疲れました。
ではまた。


by 友人A (2010-10-18 18:34) 

友人A



またこのブログに帰って来た。
祈りでもなく、聖書でもなく、なぜ?
わからない。
でも書きたいのだ。
ほかならぬこの場所に。
人影もないこの場所に。
頭痛がする。
悪夢を見た。
しかし聖マリアに愛されているという
実感も得て、目頭が熱くなった。
確か、昨晩…。
でも書きたいのは
頭痛がする、
ということである。

ブログさん、
また戻ってきてもいいですか?


by 友人A (2010-10-18 19:05) 

友人A



頭痛がします、が
これから祈りか聖書かに向ってみます。
もう少ししたらまた帰ってきます。
ブログさんは黙って
迎えてくれるでしょう。
ちょっと待っててね。


by 友人A (2010-10-18 19:10) 

友人A



聖マリア様のみ
このブログも聖マリア様とともに
祈りも聖書も聖マリア様と
すべてはイエス、マリア、ヨセフとその家族の中に
教会──この神秘体
一人でもよし
聖マリア様のみ


by 友人A (2010-10-18 20:01) 

友人A



友よ
何を語ろう、神はいます
神は無限の御方、いつくしみ深い方
私はあなたに語っている
友よ
神はいます


by 友人A (2010-10-18 20:08) 

友人A



これは風邪だな
風邪薬がもうない、早めに休もう
ゆっくり休もう
では


by 友人A (2010-10-18 20:58) 

友人A



ただ友はイエスのみ、と
前に書いた
きょう「守護の天使に向う祈り」をしていたら
その出だしがこういう文句だった
「わが守護の天使、御身は天主の御摂理によりて
 わが終生の友となりたまえリ」
ああここに友が一人いたのだと思ったら
あとからあとから友が出てきた
私が毎日祈っている時に思い起こしているすべての人々が
友じゃないか
何だこんなにたくさんの友がいたのか
これじゃあ孤独なんて言えないな

半ば気の抜けたような
イエスを友とするとあとからあとから友だちが
増えてくるものだ


by 友人A (2010-10-19 18:54) 

友人A



ロザリオにしろ
「教会の祈り」にしろ
何か決まった祈りをしていないと
祈りの生活はできないな、と
思った
それでメリハリがつく
ただ黙っていたり
行い即祈り、と考えて全く決まった祈りを疎かにすると
祈りの生活は崩れる
ある時間は決まった祈りのために確保していないといけないと
きょうはほんとはそのことをまず
書きたかった…


by 友人A (2010-10-19 19:20) 

友人A



きょうは通院した
恩人の医師はお休みだった
もう高齢であられるからな
健康に気をつけてもらわないと
帰りに喫茶で朝食をとって
民数記の今週配分の箇所を読んだ
読めるもんだ
でも油断して気を緩めずに
まだ戦いが終わったわけではない
勝つには勝っているが…
しかし勝ったな
勝ってからもう2000年もたつ
大したものだ



by 友人A (2010-10-19 19:29) 

友人A



だいたい
私の名前が友人Aなのである
友がイエスのみとは昔の話
まず真っ先に
私が友なのだ


by 友人A (2010-10-19 20:10) 

友人A



詩人はたくさんおるな
私も大ぼら吹いてはいられないな
笑われるぞ


by 友人A (2010-10-19 20:15) 

友人A



「主は水辺に立って」


by 友人A (2010-10-19 21:46) 

友人A



八木重吉

立原道造


by 友人A (2010-10-19 21:48) 

友人A



生きる喜び

文学の喜び

信仰の喜び

書き記す喜び

聴く喜び

読む喜び

生活の喜び

人生の喜び

眠る喜び


by 友人A (2010-10-19 22:09) 

友人A



怖がらなくてもいいと言い
ひでりの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに私はなりたい


by 友人A (2010-10-19 22:17) 

友人A



わが守護の天使
御身は天主の御摂理によりて
わが終生の友となりたまえリ
御身の尊きご保護と絶えざる御導きとを感謝し奉る
願わくは御身の強き御翼もてわが弱き霊魂を覆い
危険を免れしめたまえ
苦しみにあうとも落胆することなく
幸運においても思いあがることなく
世俗とその精神に流さるることなく
貧しき人をないがしろにすることなく
主の御慈しみにより
御身に委ねられたるわが一生が
すべて御身の喜びとなるよう
われを導き われを励まし われを強めたまえ
われを離れず わが足の躓からんよう
清き御手もてわれを支え
我を守りたまえ
アーメン


by 友人A (2010-10-19 22:46) 

友人A



もうすぐ日が替わりますね
きょうはお調子に乗りすぎたかも
ごめんね ブログさん
あす教会へ行けたら
帰りに喫茶で珈琲飲んで
民数記、もう一度読んできます
日が替わるまでには就床するつもり
また戻ってきてもいいですか
ブログさん またあした


by 友人A (2010-10-19 23:33) 

友人A



相手はなかなか手ごわいですよ
よく祈り 
心を平和に保つように心がけなければなりません
何事でもそうでしょう
心の平和
これこそすべてのものの源です これさえあれば恐れなくて済む
それは祈りによって得られます
きょうも祈りによって始めました
戦いに勝つために


by 友人A (2010-10-20 09:30) 

友人A



外敵は防いでも
まだ内部の蟲がいます
これはなかなかの難物で祈りを喰い荒す蟲です
ふさぎの蟲
弱り目に祟り目
でもやはり祈ることで退治しなければなりません
あすの聖書の集いの準備があるのに
この蟲が働きはじめました
祈りの後だけに難しい
仕方なくまず書いています

寒い
風呂にでも入ろうか

マリア様…

ブログさん
投稿していいですか

まだ書いていいですか

まだ…


by 友人A (2010-10-20 13:35) 

友人A



友だと思った者が今度は敵となって現れる
愛する敵となって
祈りだな 祈りをしよう
それから風呂でも聖書でもブログでもなんでもいいから
始めることだ
そしてじっと坐っている
外は雨

 
by 友人A (2010-10-20 13:46) 

友人A



敵だと思った者が
実はやはり友だった
こういうことがあったときはうれしくなる
ほんとうは敵などいないのだ
いるとすれば
悪霊だな
人間を敵と思ってはいけない
敵と思えるようなときは祈るのだ
いずれ友と分る
雨の日は
気が滅入りがちだが
そういうときは工夫をすればいい
自分に言っているのだよ
偉そうなことばかり言っているから
まだPCの周りをうろついている
聖書は? 風呂は? 
告白しよう
食べすぎて気が滅入っている


by 友人A (2010-10-20 15:37) 

友人A



二階へ上がって祈る
風呂
横になって休む
ブログに書く(ゴメン)
動く
話をする
聖書(あすの準備)
食べる(は除外)
何もしない
歯を磨く
なんでもいいから
現在を落ち着いて過ごせ


by 友人A (2010-10-20 15:57) 

友人A



居間へ行って家内と話をしました
娘が大学時代の友人と会いに行くのを送りだしました
チン ジャオ ロウ スー という中国の
炒めものを食べて歯を磨きました
二階へ上がって祈りました
残っているのは
聖書の準備とかお風呂に入ることとかです
その前にまたブログを訪れました
気持ちを整理するためです
書くことは特にありませんが
書くことがたぶん好きなもので…
では
また戻ってくるかもしれません
この温かいブログに。


by 友人A (2010-10-20 18:45) 

友人A



聖マリア
私はどうしたのでしょう
筆が荒れました
つまり私の心が荒れているのです
聖マリア
急いで助けに来て下さい
あすはダメでしょう
風呂もやめます
聖マリア
風邪気味で頭痛がします
私を導いて下さい
休みます


by 友人A (2010-10-20 20:21) 

友人A



聖マリア
私と共に生きてください
聖マリア
私を内的に変化させて下さい
聖マリア
私と心の交わりを持って下さい
聖マリア
自分の生活にあなたを
再現することができますように


by 友人A (2010-10-20 20:29) 

友人A



私の名前は友人A
怪人Aではありません
聖マリアを信頼しています
聖マリアに祈ります
聖マリアは私を見捨てない 見放さない
私の名前は友人A
怪人Aではありません


by 友人A (2010-10-20 20:37) 

友人A



明日は明日の風が吹く
あすはあすが患うであろう
私は今を生きている
今を愉しまなけれゃ
誰も迷惑な人もいないだろう
頭痛がする
風邪気味なのでね
風呂には入らぬよ


by 友人A (2010-10-20 20:46) 

友人A



私には助けなければいけない人がいる
そのために祈らなくてはならない
ちょっと祈ってくる
風呂はやめ 聖書はやめ
(何べん繰り返すんだ)
私には助けなければならない人がいる


by 友人A (2010-10-20 20:52) 

友人A



このキャラは最後にしよう
私は目立つのが嫌いなのに
もうだいぶ目立っている
もっとも見る人の影もないが
それでも目立つのは嫌いでね
このキャラは終りにしよう
もしかしたら迷惑している人がいるかもしれない
私も少し飽きてきた
飽きてきてまだ書くというのは凄いね
駄文だもんね
自分で書くのを楽しんでいるんだ
果たして最後になるかね
ちょっとふりを替えて
また顔を出すのじゃないかい
先のことはわからない
ケ・セラ・セラだね


by 友人A (2010-10-20 21:32) 

友人T



私は友人Aではない
友人Tです
A君がだいぶのしているので
わたくしもでしゃばりました
性格が似ているんです
同一人物と思われるくらい
でもAでなくTですよ
A君は純文学系崩れでしたが
私はエンターテインメント系列の割り切った友人です
もう二度と現れないかもしれません
世にはばかる人はたくさんいるし
私の出番なんて今回限りと思いますよ
アルファベットの数だけ友人もいるみたいだし
ではまた


by 友人T (2010-10-20 21:58) 

友人Z



さすがに疲れました
しばし書く楽しみを味わわせていただきました
この半日を下さった神に感謝します
久し振りに遊んだという気がします
楽しかったです
こんな遊び方もあったんですね
途中で気が弱ったりしましたが
今は元気です
私の名前は友人Z
つまりアルファベットの最後のものです
つまり今夜のですよ
あすはどうなるかわかりません
ほんとは今日だってまだどうなるかわからないんですが
Zという名にかけて最後にします
ほんとに楽しかったです
途中で気が弱ったりしましたが
今は元気です
あすの聖書どうなるものか
まあ風呂はあすはいることにして
とりあえず一つ感想は浮かびましたが
それでいいものかどうか
でも心配していません
何とかなると思います
どうもありがとうございました


by 友人Z (2010-10-20 22:24) 

訪問者



死が待っている
体も衰えてきた 歯も目も
ちょっと怖い
そう思ったりするのは気の迷いだな
現在を建て直してみたら
今夜、これから寝るまでの間
充実した時間を
過ごせたらいい

過去にこだわるのはやめよう
取り返しのつかないこと
この夜を、楽しく過ごそう
明るい気持ちを持って
風呂は無理だな

さっき1時間半ほど寝入った
目覚めは悪かった
風呂をあきらめて
あすの早朝ミサの聖書朗読の練習をした
起きられるかどうか
まだ眠れないだろうし
炬燵を入れたから
黙って温まるか
お祈りするか
恐れさえしなければいい
心配しなければいい
明るい気持ちを持てばいい
毎日が日曜日じゃん

ブログさん
書かせてくれてありがとう


by 訪問者 (2010-10-25 00:28) 

訪問者



いま炬燵に入って
「民数記」を17,18頁くらい読んだ。
おもしろかった。
これから着替えて寝ます。
ブログさん、ありがとう。
神さま、ありがとう。

おやすみなさい。


by 訪問者 (2010-10-25 02:09) 

訪問者



心の深い傷がある

心の深い傷がある

この痛手をどうしよう

この痛手をどうしよう


by 訪問者 (2010-10-25 17:10) 

訪問者



マリア様が私の心の傷に手を触れた
それがわかった
この恵みを失わないようにしよう


by 訪問者 (2010-10-25 18:25) 

訪問者



マリア
助けてください

マリア
ロザリオができますように


by 訪問者 (2010-10-25 19:54) 

訪問者



ロザリオしました

もう1環、させてください。


by 訪問者 (2010-10-25 21:25) 

訪問者



マリア
もう1環、ロザリオさせてください

ここが勝負どころです
平和を克ち取るか、地獄へ堕ちるか

風呂が娘と重なる可能性がありますが
ロザリオさせてください

マリア


by 訪問者 (2010-10-25 22:20) 

訪問者



マリア様の恵みを無にしてしまった
一旦寝たのだが、寝られないで雑にロザリオやった
それでも気持ちは少し落ち着いた

愛されていることを信じております
あす早朝ミサでまた朗読をしなければなりません
安らかに寝かせてください


by 訪問者 (2010-10-25 23:28) 

訪問者



早朝起きたら

事態は好転していた

ミサに行って帰って来た

疲れているから少し眠って疲れをとって

お祈りしよう

きょうは一人で留守番

静かに休める

マリア


by 訪問者 (2010-10-26 09:28) 

訪問者



いまさっき眠りから覚めて
食事をした
トーストとサラダと野菜炒めを温めて

空はどんより曇って
夕暮れみたい
これからロザリオかお風呂

本を読むかもしれない
1日を楽しもう
マリア様に感謝


by 訪問者 (2010-10-26 15:18) 

訪問者



目が覚めてだんだん落ち着いてきた

これから何をするのか楽しみ

マリア様とお祈りするか

民数記を読むか

他の本にするか

物思いに沈むか、風呂に入るか

あれこれ考えるのも亦楽し

ブログを前にして

もう文学賞なんて興味ない

世に出るつもりもない(そんな力もない)

詩が書けるかどうか楽しみなだけ

大した詩じゃないが

どんな詩が書けるものか(書けないものか)

あと聖書を読むこと

マリアさまと共に生きること

うれしい

生きるのが


by 訪問者 (2010-10-26 15:51) 

訪問者



また寝入っている間に
家人が戻ってきた
午後6時過ぎに
お土産の栗甘納豆と昼の残り物を食べた
朝ミサから帰ってから
何もしていない
フログを前にしてあれこれ考え
結局居眠りをしていただけ
それでも楽しかった
神経が休まった
家人二人では温泉センターみたいな所に行って来たので
今夜はいつでも風呂に入り
いつでも祈り始めることができる
あすの朝ミサの聖書朗読のことだけ
頭に入れておけばいい
ブログさん
今日もありがとう


by 訪問者 (2010-10-26 19:16) 

訪問者



訪問者の話として聞いて下さい
ロザリオ1環終えました
事態が悪化しなければいいのですが
マリア様に祈ったから
だいじょうぶでしょう
これから風呂とロザリオもう1環したいです
先程のロザリオは丁寧にやったので
もう1環の方は簡素にします
風呂には是非入りたい
どうなるかわかりませんが
いまは主に旧約を読んでいます
たまにル・フォールかモーリャックでも読みたいのですが
なかなか思うようには参りません
事態が悪化しないよう
もう一度祈ります


by 訪問者 (2010-10-26 21:24) 

訪問者



平和でした
家人は二人とも寝に就きました
私は2環目のロザリオを終え
さて、風呂に入るか、寝てしまうか、何をするか
ブログを相手に考え中です
マリア様は祈りをよく聞き届けてくれます
感謝です
平和でした
ただ眠いのが困ります
それがなければ風呂に入るところですが
眠い 眠ろうか
ブログさん
今日も失礼しました
またあした(かな?)


by 訪問者 (2010-10-26 22:24) 

訪問者



けさ4時ころ起きて朝風呂に入った

朝方の祈りをした

これから着替えをして

6時のお告げの祈りをして

朝ミサに出かける

また新しい1日が始まった

うれしい


by 訪問者 (2010-10-27 05:49) 

訪問者



傷口があいてまた血が流れた

一人で手当てするしかない

祈り

もうすぐ一人になれる


by 訪問者 (2010-10-27 12:48) 

訪問者



家人が二人出て行った

優しいことばをかけて

その直後 猫を怒鳴った

マリア

まだ心が鎮まらない

もう長い戦いだから

猫をもずいぶん怒鳴ったな

でもこれから回復するのは難しい道ではない

何度も辿った道だから

わかる


by 訪問者 (2010-10-27 13:45) 

訪問者



さびしい

さむい

風邪をひきそうだ

炬燵へ戻ろう

ブログさん

また来るよ

いいかい?


by 訪問者 (2010-10-27 14:41) 

訪問者



早めの夕食を終え
絶えざる御助けの聖母への祈りを十、
ロザリオ1環唱えた。
夕食で元気を出し、
ロザリオの口誦で活気が出た。
事態は大して変わらないが
自分との戦いにはまず
元気がなくては。
人のことより
まず自分を鼓舞し
戦いに乗り出すこと、
これが肝要だ。
あすの民数記の感想を考える前に
もう少し祈りたい。
もうマリア様は
完全な恵みを与えて下さるはずだ。
私たちは愛されているから。
もう少しだよ、
ブログさん。
もう少し…。


by 訪問者 (2010-10-27 19:00) 

訪問者



いま長めのコメント送信しましたが
技術的エラーで送信できませんでした。
これはもうやめろという、神の御託宣か、何か…。
もう一度やってみますね。


by 訪問者 (2010-10-27 20:30) 

訪問者



あ 送信できました。
しばらく自分と向き合いたいのでブログを
借りています。
独り言みたいなものです。
ごめんなさい。
さっきのは長すぎたかもしれません。
ブログが更新されたら
何か感想を絞り出すつもりですが、
絞り出るものかどうか分かりません。
今度エラーが出たらやめます。
神のみ旨でしょうから。
今日1日の勝負には勝ちました。
朗らかな、明るい気持ちです。
ではまたあした(かな)。


by 訪問者 (2010-10-27 20:42) 

訪問者



(追伸)
朗らかな明るい気持ち、ほんとですよ。
うれしいです。
あすが楽しみです。
自分と向き合うのもいいですね。
かしこ(えー)


by 訪問者 (2010-10-27 20:54) 

訪問者



今日は朝ミサのあとロザリオ1環
朝昼兼用の食事
炬燵で居眠り
12時10分前に目が覚めた
相変わらず目覚めは悪い、
でもお告げの祈り、守護の天使に向う祈り、昼の祈り
をこなした
これでまた寝込むと悪いパターンにはまるので
なんとかする
まずロザリオもう1環
それから場所を変えて民数記を読もうかな
再度外出するかどうかは後で決める
とりあえずブログで楔


by 訪問者 (2010-10-29 12:35) 

訪問者



油断をした

風邪をひいた

悪化しないようにしたいが…

いま家族三人で夕食をとった

おいしかった


by 訪問者 (2010-10-29 17:34) 

訪問者



午後はロザリオをして
神のいつくしみのチャプレットをして
用心のためベッドで寝た
きのうの聖書100週間の集いが済んで
ほっとしている
夕食後のひと時をパソコンの前で過ごしている
あすまた早くミサでの聖書朗読がある
起きれるよう
目の疲れも風邪から来るようだ
読書にも気をつけて
今夜、あと二、三時間をどう過ごすか
楽しみだ


by 訪問者 (2010-10-29 18:37) 

訪問者



家内とあれこれ考えながら
息子にメールしたり
民数記25章26章27章を読んだり
体重を測ったりトイレに行ったり水を飲んだり
炬燵でぼっとして考え事をしていたり
その他よい時間を過ごせた。
10時半頃には寝る予定。
あすまた早起きだから。
体の摩擦をして着替えて眠剤も飲む。
よい1日だった。
教会の手伝いをできるかどうか今朝打診された。
これから何か教会の仕事をするようになるかもしれない、
できることなら。
教会と共に生きる、が
こんな形で実現していくのかな。


by 訪問者 (2010-10-29 21:27) 

丘野安治



今日は朝ミサとその直後の読書以外何もしていない
祈りをしないと具合が悪いのだ おそらく 
家人は夕方のミサに出かけた
6時ころ終わるから7時前には戻るだろう
戻っても格別どうということもない
私は鬱鬱としている
外は嵐だ
こんなときは自分と対面するいい機会である
まず祈りをする決意を固める

それだけだ おそらく
やってみようか……


by 丘野安治 (2010-10-30 17:26) 

丘野安治



昨夜は作戦大成功
ロザリオを丁寧に2環やった
今夜はまた血を流しながら自分との戦い
もう眠りたいが
いつものロザリオをもう1環やりたい
風呂には入らぬ

戦いに勝つ決意をする
勝てなければ朽ち果てるのみだ



by 丘野安治 (2010-10-31 20:33) 

丘野安治



お風呂からあがりました
ゆっくり湯につかり 頭を洗い 体を洗って
さっぱりした気持で、ひとり、考えています
疲れはありますが、安らかです
幾ら血を流しても傷跡が残らない
振り返ってみるとそのようでした
根に持つこともありません
イエス様、マリア様のお蔭だと思います
愛を感じます
大きな無限の愛
この愛は死よりも強い
人間の自由意志をも強く惹きつけます
羅針盤の針が 北極をさすように
いずれみなこの愛のうちに憩うことでしょう
確かに では おやすみ


by 丘野安治 (2010-11-02 00:32) 

丘野安治



相変わらず目覚めは悪かった
こんな具合でいままで勤めに出ていたのか
よく続いたな
大変だったんだなと思う
でも起きて柿やパンの一切れを食べ
このブロクに向っていると
心身の状態が落ち着いてきて
外は明るく
小鳥のさえずりが聴こえた
きょうは死者の日
ミサに出かける
娘が元気に出勤してほっと一安心
イエス、マリア!

感謝。


by 丘野安治 (2010-11-02 08:56) 

丘野安治



ブログ
この静けさがいい

秋田へ行く
こちらは晴れなのに
あちらは雨模様

マリア様を慰めに
行く


by 丘野安治 (2010-11-02 20:16) 

丘野安治



マリア

マリアの美しさは肉の美しさではない
乏しさの美しさ 見えないものの美しさ 貧の美しさ
朽ちないもの 目をひかないもの とこしえのもの

マリア

あなたに会いに行く


by 丘野安治 (2010-11-02 20:31) 

丘野安治



マリアの美しさは
謙遜な霊魂の輝きの美しさ
霊的体の美しさ
愛の神を反映する鏡の美しさ
完璧な無という美しさ
貧しさの美しさ


by 丘野安治 (2010-11-05 21:06) 

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