2006年11月 [掲載情報]
「文學界」12月号に、「文学まであと少し」の第9回「ドン・キホーテのように」が載ります。
今年度の萩原朔太郎賞を受賞した松本圭二さんの『アストロノート』(叢書重力)を中心に、瀬尾育生『戦争詩論 1910-1945』(平凡社)と都築響一『夜露死苦現代詩』という、最近刊行されたふたつの詩論をからめていろいろ考えてみました。
なかなか手に入れにくいのだけれど、『アストロノート』はね、めちゃくちゃ面白いよ!
それに文字の分量から言うと、たぶんふつうの詩集の4〜5冊分ぐらいは軽くあって、2500円だけど実はお得だよ!(原稿の締切間際のいちばん最後に、ふつうの分量の本のつもりで読みはじめて死にそうになりました……)
いまはここで買えるようです。
煥乎堂(前橋市)
http://www.kankodo-web.co.jp/
それから時評の最後の方で、毎日新聞の記事からヤフーのヘッドラインに出て話題になった、「三田文学」秋季号の片山飛佑馬さんの「アパシー」についても少し触れています。
「三田文学」の掲載号はもう手に入らないようですね。
http://www.muse.dti.ne.jp/~mitabun/
読売新聞2006年10月24日 [掲載情報]
今年の4月から3ヶ月に一回、読売新聞文化面の「注目の評論」というのを書いてます。
一週間たったので、全文転載(いいよな)。
《遠藤周作が没して今年で十年になるが、加藤宗哉『遠藤周作』(慶應義塾大学出版会)は作家自身をよく知る著者による渾身の評伝である。作品自体について語ることを自制しながら、作家にまつわる事実からその文学の真実に迫っている。大きな発見は、没後に明らかになった留学生時代のフランス人女性との恋愛が、作品世界に強い痕跡を残しているということだろう。著者にしか書けない側面で作家の本質を抉り出すとともに、読者に遠藤周作の作品を読む喜びも残してある気配りが光る。
いま文学について魅力的な批評的散文を書いているのは、残念ながら文芸評論家ではなく小説家である。それはポストモダン以降の文芸評論が文学に興味を失ったからかもしれないし、商業的な理由から現代文学で小説的なものが肥大したせいかもしれない。そのことを示す保坂和志『小説の誕生』(新潮社)は、批評の言葉で手探りできる「小説的なもの」からはじめてそれを受けつけなくなる「小説」まで近づくことをくり返す。その近づくときの言葉の感触を、文学と呼ぶべきだろう。
日本のマンガやアニメを愛するアメリカ人が、アメリカのオタク文化について縦横に論じたパトリック・マシアス『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』(太田出版、町山智浩編訳)が刺激的だ。細かな話の背後から、国内では不遇なオタク文化が、世界が手を焼くアメリカのマッチョ文化を解体する力をもつという事実が浮かびあがる。》
ぜひ手にとってみてください。
2006年10月 [掲載情報]
「文學界」11月号(7日発売)に、文芸時評「文学まであと少し」の第8回、「小説の自意識」が載ります。
「三田文学」秋季号(10日発売)に、瀬尾育生『戦争詩論 1910-1945』についての書評が載ります。
「文學界」2006年10月号 [掲載情報]
連載中の文芸時評「文学まであと少し」の第7回目が載ります。
題名は「スピードを落とす」。
雑誌発表以外のものでは川上弘美さんや長嶋有さんの近刊、歌人の東直子さんの小説集『長崎くんの指』(マガジンハウス)なんかについて触れています。
またありがたいことに、武田将明さんによる『新約太宰治』の書評が載っています。
それほどたくさん書評というものを書いてもらったことがあるわけではないのですが、書き手が追いつめられるという感じの迫力のある書評を初めて読みました。
疑問点をあげながら、その上で好意的に評してくださっているのですが、なんて言ったらいいんだろうな。
三島由紀夫がどこかで書いていたと思うけど、保田與重郎の評論を読んであまりにも面白そうだから、そこで取りあげられていた作品を読んでみたら、ことごとくつまらないものばかりだったという話がある。
これはまあ、批評の自立を示すエピソードだけれど、いまの場合、武田さんの書評が「保田與重郎の評論」に当たり、僕の『新約太宰治』が「評論に面白く取りあげられたけど実はつまらない作品」というのに当たる。
もしそうだったら困るなあ、というような気を著者に起こさせるほど、批評の力にあふれた書評でした。評者に感謝します。
北日本新聞2006年9月4日 [掲載情報]
僕の郷土であるところの富山の、地方紙である北日本新聞にエッセイを書いた。
『新約太宰治』の刊行にあわせて載せてくれたので、内容もそれについて少し触れている。いささか妄想気味だが。
まあ二日たつので、転載してもいいかな。
《太宰治は青森県の出身である。
わたしは富山県の出身である。
以上の二つの事実は一見まったく関係がないのであるが、しかしわたしの勝手な思い込みでは富山と青森は深いところでつながっているので、わたしが太宰治という作家に出会ったのはそのせいではないかと思う。
実はその秘密の結びつきに気がついたのは、太宰治について評論を書くことが決まって一昨年の夏に青森まで旅行したときのことである。青森県の金木町には太宰治の生家が太宰治記念館「斜陽館」として残されているし、太宰治の実質的なデビュー作である「思い出」や晩年の重要な作品である紀行「津軽」では青森が舞台になっている。わたしはそれらの場所を自分の目で見ておきたかった。
それで弟に車を出してもらって青森まで行ってきたのであるが、いろいろと発見のある旅であった。わたしは現在東京に住んでいるが、青森のような土地を東京と比較してもつまらない。日本の東京という場所は、それ以外のどんな土地より「都会」で「中心」であるようにしてつくられているからだ。それと比べれば、東京以外の土地はみんな「田舎」で「地方」だということにしかならない。とくに最近ではその傾向が強まっていて、だからわたしは生まれて十八年間暮らした富山と比較しながら青森を見てきた。
たとえば太宰治の幼年時代のことを書いた「思い出」を読むと、太宰治が生まれた金木町のある地方の中心的な町として出てくるのが五所川原である。南の方から青森県に入ったわたしたちは、弘前で一泊して最初にその五所川原に向かったのだけれど、これが駅前の感じではちょうど富山県の滑川のような規模の町であった。ちなみに青森県地方の古い都市であり、県庁所在地ではないがその地方の大きな都市である弘前は、富山で言えば高岡に当たる。わたしと弟は、そうして冗談まじりに青森を富山に見立てながら五所川原をすぎて金木へと近づいていったのであるが、見わたすかぎりの田園風景のなかを走っていく感じは山が見えないことを除けば、富山で滑川から上市あたりへ向かっているのと変わらなかった。わたしが生まれ育ったのは、立山が近くに見える富山県の上市町である。
しかし、そういう見方が冗談ではなくなったのは、金木に着いてその役場の前に立ったときである。なぜなら金木町役場は、上市の役場とそっくりそのままの大きさの建物だった。金木町と上市町の規模はほとんどおなじということだ。太宰治が生まれた金木町は、つまり上市町だったのだ!
そういう思い込みを足がかりにして、わたしは今度上梓した『新約太宰治』を書いた。
これまでの太宰治についての評論は、たとえば奧野健男の『太宰治論』が代表的であるが、自殺して死んでしまった太宰治に共感して書かれたものが多かったように思う。もちろんそういう読み方も太宰治という作家を理解する上で重要なのであるが、そうして作家は死んでしまった一方で、その作品の言葉は現在も生きていて新しい読者を生みだしつづけている。わたしはそういう生きている太宰治について書きたかった。だから太宰治の言葉を生きなおし、太宰治に自己同一化するようにして評論を書いた。「新約」という題名は太宰治の文学にとって重要な意味をもつ聖書から取っているが、同時にいままでの評論は「旧約」であるといういささか傲慢な意図もある。
青森と富山を重ねる妄想をつづけさせてもらえば、県の位置で考えても新潟と石川というブランドイメージの確立した県にはさまれた富山のあり方は、秋田と岩手という個性的な県にはさまれてイメージづくりが難しい青森のあり方に似ている。すなわち青森は富山的であり、あるいは富山が青森的なのである。
考えてみれば、わたしの妄想の起源にあるのは青森についての太宰治の言葉である。それは青森について教えてくれるだけでなく、「郷土というもの」を発見させる。日本の近代文学で、東京を中心とした都会の近代的な生活について考えていた多くの作家は、故郷や郷土について書くときはもっぱら前近代的な地方の田舎として見ていた。仮にある土地がよく描かれる場合にも、その言葉はその土地にしか当てはまらなかった。そこでは青森についての言葉が富山を青森的なものとして発見させるということは起こらない。
太宰治は個別の郷土ではなく、「郷土というもの」の本質を言葉にできた稀有な作家である。その含羞に満ちた言葉は、わたしが富山についてそう感じるように、故郷や郷土というものに含羞を覚えずにはいられないすべての人のものである。》(「太宰治と故郷」)
ううむ。
妄想してるな。現実より幻想が見えていると言っていい。
そういう幻想が、太宰治について本を一冊書かせたわけだ。
いつの世も人間を動かすのは、金とか名誉とか、そういう実体のないものなのだ。