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読売新聞2007年1月23日 [掲載情報]

3ヶ月に一度掲載の、「注目の評論」です。

だいたい2006年10月半ばから2007年1月半ばまでの、3ヶ月間に刊行されたものを対象にしています。

《いろいろな意味で文学はいま過渡期であり、区切りの時期を迎えているが、まず戦後一貫して否定的なあつかいを受けてきた、きわめて日本的だと言われる私小説を読み直した秋山駿『私小説という人生』(新潮社)が、戦後という枠ぐみにおさまらない小説のゆたかさを探りあてていて刺激的だった。近代文学を否定して、私小説を馬鹿にする現代作家たちは、たとえば田山花袋の『蒲団』を判で押したように揶揄するが、その硬直した思考と現在の小説の不振はどこかで通じている。文学観が固定すれば作品も生気を失う。日本的な私小説に、実は文学の根源的な力が刻まれているという本書の読み方は示唆に富む。

おなじく小説への危機感から、現在を近代文学という枠ぐみ自体の過渡期だと考える高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)は、聴衆に話しかけるような語り口で近代黎明期の日本文学の問題と現代文学の問題を重ね、ときに戦後文学の問題もまじえながら日本の小説について語っていく。一貫しているのは、近代を論じても現在を論じても、起源の言葉の力を取りもどそうという思考の魅力的なうねりだ。

文学を言葉の問題と考えれば、たぶんメディアとしては小説よりテレビの方が影響力が大きい。しかしテレビの言葉について真剣に批評する人は少ない。小田嶋隆『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)はその数少ない貴重な仕事である。時評的な文章から浮かびあがる、毒をまき散らしつつ空疎になっていくテレビの様子は、文学が辿る運命にも見える。》

私小説という人生

私小説という人生

  • 作者: 秋山 駿
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/12
  • メディア: 単行本


ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独

  • 作者: 高橋 源一郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本


テレビ標本箱

テレビ標本箱

  • 作者: 小田嶋 隆
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2006/11
  • メディア: 新書


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コメント 4

hill

このブログをみて、
秋山駿氏の『私小説という人生』を
買う決心がつきました。
取り寄せてみると、以前書店の店頭で
眺めたときの印象と違って
綺麗な装丁の
魅力的な本でした。
25日に届いてすぐ読み始めて
内容においても持っていた先入観を吹き飛ばされました。
67頁まで読みましたが
先ず引用されている花袋の『蒲団』って
こんなに面白かったの
という感じでした。
それを批評していく駿氏の手さばきも
見事だと思いました。
題材が明治期の作品だということで
古臭いな、と思っていたのは大間違いで
『蒲団』って今でも読めるじゃん、
とさっそく岩波文庫のを本棚の奥からひっぱりだしてきて
いずれ読んでみるつもりです。
取り上げられている作品では、
『平凡』『たけくらべ』『にごりえ』の三作はいちおう読みました。
こういう具合に取り上げられているすべての作品を
なんとなく身近に感じ出すと
この『私小説という人生』が俄然生彩を持って来ました。
これからが楽しみです。
あす管理職の授業観察があるのに
こんな夜遅くブログへの書き込みなんかして、と
自分でも思いますが、
いったん就床したのに就眠できなかったので
起きて身体を疲れさせてからもう一度眠ってみようと
書き込んでいます。
だいじょうぶ、何とかなりますよ、って
思っています。
by hill (2007-05-28 00:04) 

hill

日曜のきょうの午後
体育祭の応援団の練習のための当番で出勤し
帰宅して ふと
持ち歩いている何冊かの本のうちから
『私小説という人生』を取り出して読み始めたら面白くて
「岩野泡鳴」の章を読みきりました。
小林秀雄とかドストエフスキーとかが登場して
泡鳴さん真っ青 という感じでしたね。
老後の楽しみに「小林秀雄全作品」31冊を揃えたのは
ムダじゃなかったな と思いました。
読みたくなるんですよ、小林秀雄とかドストエフスキーとか、その他もろもろを。
まだどうこう言う力はありませんが(いつまで経ってもそうかもしれませんが)、
駿氏の思索の跡を追ってみたい、
という気にさせる本です。
田中さんの、敗戦後文学論、楽しみにしてますよ。
by hill (2007-06-03 22:03) 

hill

(承前)
一、二週間前の深夜
「二葉亭」の章を読み、
きょう「樋口一葉」の章を読みました。
お力が七歳のときの思い出は
はっきりと記憶に残っています。
私は、まだ一編の小説も書いておらず、
書く詩も覚束なかったころ
文学しか生き延びる道はないと
思いつめていた一時期がありました。
教員になってから
小説を書こうか、修道士になろうか、それとも
このまま教員を続けようか、
自由に選びなさいと神様に言われている気がして
結局、教員を続けることを選びました。
小説を書いて生活する苦しみをしたくなかったからです。
たしか四十九歳のとき
自分は詩人だった と故知らず思いました。
それでも生活のために必要ならば詩(文学)を捨てるつもりでした。
こんなことを書いたのは
秋山駿氏の世代の人たちが
-文学をやるとは、「人非人になることだな」と言い交わして‥‥
 生活など、何がどうなろうと構いはしない、往ける処まで往ってやろう-
そんな覚悟でいたと書いてあったからです。
また、
-「小説」という物語は、「たゞ人間を人間と観る以外に、何物も考へな」い、そういう作者の手で書かれれば、それで充分なのだ-と
書いてありました。
私は一度文学によって救われたと思っていますが
もう一度今度はキリストによって救われたと思っています。それは
カトリックという宗教を底の底まで
受容したということだと思います。
それでも詩の勉強をし詩作をつづけるつもりですが
詩に対する執心がかなりなくなりました。
詩(文学)と宗教の出会う道を
歩きたいと思っていましたが
もしかしたら詩が書けなくなるかもしれません。
こういうことはみな宿命というもので
自ら足掻いても
仕方のないことでしょう。
でも駿氏の文学に対する態度には
私にはない潔さがあります。
一葉の「にごりえ」の、駿氏のいわゆるラスコーリニコフ的歩行の場面は
私には泣かずに読めなかったところでした。
by hill (2007-06-16 22:05) 

hill

午前一時に
『私小説という人生』
読み終えました。
おもしろかった。
ほぼ三週間くらいかかりましたが
時間の余裕があり
目が疲れやすくなかったら
一気に読めただろうと
思うくらい
文章に魅力がありました。
二日三日前に
『聖霊と教会』という四百ページほどの
文庫本を読み終え
つづけて二冊読み終えたことは小さなカタルシスになりました。
駿氏の著作は『砂粒の私記』『信長』『神経と夢想』などが
まだ読まれず
本棚にあります。
私としては二十年、三十年前に買った本を
それくらい経ってから読むということは
よくあることなので
そのときが来るのを楽しみに
待っています。
by hill (2007-06-17 01:48) 

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