羽田圭介『メタモルフォシス』書評 [掲載情報]
・田中和生「現実を暴力的に創造するーー羽田圭介『メタモルフォシス』」
室井光広『柳田国男の話』書評 [掲載情報]
さっそく文芸誌「てんでんこ」を主催する室井さんが、文学塾「てんでんこ」のホームページでその書評に触れてくださっています。
・文学塾「てんでんこ」7月16日「幻のヨミカキ塾生諸君へ」
僕自身がずっと文学史上の位置づけがわからないと思っていた柳田国男について、これほど鮮やかにそして本質的にその文章がもつ意義を教えてくれる本はありません。驚くべきことに、そのもっとも適切な位置は友人であった田山花袋の自然主義からはじまる近代の日本文学史上ではなく、世界文学史上にあるのです。興味のある方はぜひご一読ください。
新刊案内 [掲載情報]
以下、「後記ーー結論に代えて」を転載します。
《数えてみたら、わたしは5度、生前の吉本さんに会っている。
最初は、わたしが文芸評論家としてデビューさせてもらった文芸雑誌「三田文学」で行っていた連続インタビュー「私の文学」で、2回目となる2002年夏季号に登場していただいたときである(「中央公論特別編集 吉本隆明の世界」再録)。文学的経歴の長い書き手たちに、自らの文学について語ってもらうという企画だったが、その話を収録するために文京区本駒込にある吉本さんのご自宅まで伺った。気持ちよく晴れた5月の午後だったが、初めて会うなり、客間らしい和室の畳に頭をこすりつけるようにして「吉本です」と挨拶された姿が、強くわたしの目に焼きついた。
2回目は、おなじく「三田文学」で没後五年となる江藤淳の特集があり、そのインタビューを2004年の秋に行ったときである(2005年冬季号)。ほぼ同時代を生きた文芸評論家である江藤淳について、ふたたびご自宅で率直な話を語ってもらった。わたしは試行錯誤しながらどうにか文芸評論を書き継いでいたが、いくつも現在の文学をめぐる問題を挙げられて、それについて考えることが「田中さんたちの課題になる」と言われたことを思い出す。なにをどうすればその課題に応えたことになるのか、それ以来ずっと考えているのだが、たいした仕事もできないまま10年近くが過ぎてしまった。
それから2007年ごろに、わたしの本を担当してくれた編集者に連れられて、吉本家の春のお花見の会と年末の忘年会に参加している。吉本さんが大きな座敷の隅っこの方にいて、静かに微笑んでおられた様子をよく覚えている。
最後にお会いしたのは、文芸雑誌「群像」2009年新年号に掲載された吉本さんのインタビュー「文学の芸術性」で、聞き手を務めたときである。11月に入ったばかりの薄曇りの午後だったが、いつものご自宅での談話は尽きることを知らず、容易に答えが出るはずもない文学の問題について語りつづける姿は、まぎれもない現役の文芸評論家のものだった。その姿はいまもわたしのなかに鮮やかに生きている。
わたしは1999年7月に亡くなった、江藤淳の文学について論じることで文芸評論を書きはじめたが、現在までのところ文芸評論家としてもっとも影響を受けているのは、おそらく吉本隆明からである。たとえば2006年に時評的な文章を書くことになったときは、その文芸時評である『空虚としての主題』をひそかに手本と考えていたし、文学についての基本的な考え方はその文学理論である『言語にとって美とはなにか』に多くを学んでいる。また『マス・イメージ論』で提示された、1980年代以降の日本語による現代文学についての課題は、いまもわたしの宿題でありつづけている。
だからその吉本隆明が2012年3月に亡くなってから、わたしはいずれかならず吉本隆明の文学について1冊分の文章を書き、その文恩に報いなければならないと思ってきた。そうしたら、2013年に50枚ほどの「詩人批評家の誕生——吉本隆明論序説」という文章を寄せた『吉本隆明論集——初期・中期・後期を論じて』を刊行したアーツアンドクラフツの小島雄さんから、吉本隆明について論じたものを1冊に纏めませんかというお誘いをいただいた。
それから1年がかりで、300枚ほどを書き下ろした。それはわたしが会ったことのある吉本さんではなく、だれもが文章で出会うことのできる吉本隆明について書いたつもりだったが、しかしあらためて考えてみると、自分が打ち込んで読んだ文学者については「一冊の本を書かなければ収まりがつかない」「本格的な返礼という意味で、書かなきゃいけない」という流儀は、実は最初にお会いした「私の文学」のインタビューで吉本さん自身が語っておられたものである。つまりわたしは吉本さんの流儀で、吉本隆明の文学について論じたことになる。
形式的には、先に書いた「詩人批評家の誕生」を序論と位置づけ、書き下ろした300枚ほどを3章からなる本論とした。結論が欠けているが、自分が打ち込んで読んだ文学者についての「本格的な返礼」としての「一冊の本」は、あらかじめ結論が決まっている。それはその文学者の文章を、わたしたちは読みつづけるべきだというものである。
くり返そう。わたしたちは吉本隆明の文章を読みつづけるべきである。
その理由を知りたい人に、ぜひ手に取ってもらいたい。》
興味のある読者との出会いがあったら嬉しいです。
「三田文学」2008年冬季号 [掲載情報]
2008年1月10日発売の「三田文学」冬季号(No.92)に、「文学閉塞の現状——笙野頼子氏に尋ねる」と題する、以下のようにはじまる文章を書きました。
《二〇〇七年の「群像」十一月号に出た、小説家である笙野頼子の「さあ三部作完結だ! 二次元評論またいで進めっ! @SFWJ2007」という文章は、現在の日本文学における小説家と評論家の関係を象徴するという意味において、注目に値するものだった。なぜならそこで、小説家から評論家に対するほとんど恫喝に近い罵倒が公然と行われ、小説家の意に染まない評論は存在する価値がないと公式に表明されたからである。
同時期に出た、笙野頼子について特集した二〇〇七年の「文藝」冬号を見ても、おなじ雰囲気が濃厚にある。そこで笙野頼子は、「近況という名の、真っ黒なファイル」というエッセイで、その評論家がいかに陰謀に取りまかれたいかがわしい人物であるかということを書いているし、また笙野頼子の文学を高く評価し、そこで「書けない理由」という笙野頼子論を寄せている文芸評論家の蓮実重彦は、おなじ評論家を「『文芸「評論家」』を自称する」人間と名指し、評論家と呼ぶに値しないという身振りで小説家の主張に同意をあたえている。
ちなみにその評論家とはわたしのことであるが、まずこれまでの経緯を確認しておきたい。
二〇〇六年の「群像」新年号に笙野頼子の長篇『だいにっほん、おんたこめいわく史』が発表される。
翌月の「群像」二月号で、高井有一、玄月、わたしの三人が出た創作合評に『だいにっほん、おんたこめいわく史』がとりあげられる。高井有一「作者がいろんなことに苛立っている」「これは笙野頼子というなま身の存在を知らないとわからないことが随分ある小説です」、玄月「読み手をなめているのかな」「知っている人はわかるだろうというような、すごく思わせぶりなところがいっぱいある」、わたし「この作品の場合は、笙野さんの方向性としてはありじゃないか」「おんたこが結局一番よくわからない」などの発言が出る。
同年四月刊行の笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』の、末尾につけられた「八百木千本様へ笙野頼子より」に、創作合評の発言が「おんたこ」の標本として引用され、「現実感覚を喪失」(高井有一)、「偉い老大家に付和雷同する、玄月だか半月だか凡月だか」(玄月)、「理解者みたいな口利いてスカタン抜かすなヴォケ」(わたし)等と書かれる。
インターネット上のブログ「郷士主義!」(http://blog.so-net.ne.jp/tanakasan/)の十月五日の記事で、わたしが「今年の4月に刊行された、笙野頼子さんの『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』(河出書房新社)に出演しました!」「ついに笙野さんの小説に出演することができました。/だってねえ、これまで笙野さんの小説に出てきた文芸評論家と言えば、柄谷行人とか吉本隆明ですよ。いずれも一時代を築いた人たちだ。いっとき論敵であった大塚英志さんなんか、だんだん名前が伏せられるようになっている。/そういうなかでの出演です。やりました!」と書く。
二〇〇七年の「群像」十月号で、わたしが「フェミニズムを越えて」を発表。フェミニズム文学の文脈で、笙野頼子の『金毘羅』をその最高傑作の一つと評価しながら、『だいにっほん、おんたこめいわく史』については、「つねに被害者である女性とつねに加害者である男性という構図が固定化され」るという、現在のフェミニズムが陥っているものとおなじ悪循環に入り込んでいると批判的に指摘。
翌月の「群像」十一月号で、笙野頼子は先の「二次元評論またいで進めっ!」で「フェミニズムを越えて」に反論。また「文藝」冬号の「近況という名の、真っ黒なファイル」では、わたしの論旨というより人格に疑問を提示している。
以上がわたしと笙野頼子の応酬のだいたいであるが、たしかに仲俣暁生がブログ「海難記」(http://d.hatena.ne.jp/solar/)で丁寧に論じているように、小説家が自作を批判されて、それに反論するのは当然の権利である。しかしその反論が論理以前のしろものであり、相手の罵倒に終始しているというのはあまり生産的とは言えない。それらの点をさし引いて、わたしは笙野頼子の「二次元評論またいで進めっ!」に再反論を加えたいと思うが、それは仲俣暁生も指摘するとおり、そこにはこれまでわたしが高橋源一郎とのやりとりで批判してきた、高橋源一郎と保坂和志というふたりの小説家によってなされた「小説は小説家にしかわからない、評論家にはわからない」という主張に結びつく問題がはっきりと現われているからである。》
興味のある方は、「三田文学」最新号を手にとってみてください。
2007年4月 [掲載情報]
「週間読書人」2007年3月23日号に、白川正芳さんの『埴谷雄高との対話』(慶應義塾大学出版会)の書評を書きました。
「文學界」5月号(7日発売)に、「文学まであと少し」の第14回目「近代日本の物語[ナショナル・ストーリー]」が載ります。
2007年3月 [掲載情報]
「現代詩手帖」3月号(2月28日発売)に、辻井喬さんの特集に寄せて「『戦後詩』が血を流している——辻井喬の近作について」を書きました。
「文學界」4月号(7日発売)に、「文学まであと少し」の第13回目「ミセス・ブラウンの見つけ方」が載ります。
北海道新聞2007年2月18日 [掲載情報]
安岡章太郎さんの『カーライルの家』(講談社)の書評を書きました。
本文はこちら。
http://jyoho.hokkaido-np.co.jp/search/show.php3?/books/20070218/1.html
読売新聞2007年1月23日 [掲載情報]
3ヶ月に一度掲載の、「注目の評論」です。
だいたい2006年10月半ばから2007年1月半ばまでの、3ヶ月間に刊行されたものを対象にしています。
《いろいろな意味で文学はいま過渡期であり、区切りの時期を迎えているが、まず戦後一貫して否定的なあつかいを受けてきた、きわめて日本的だと言われる私小説を読み直した秋山駿『私小説という人生』(新潮社)が、戦後という枠ぐみにおさまらない小説のゆたかさを探りあてていて刺激的だった。近代文学を否定して、私小説を馬鹿にする現代作家たちは、たとえば田山花袋の『蒲団』を判で押したように揶揄するが、その硬直した思考と現在の小説の不振はどこかで通じている。文学観が固定すれば作品も生気を失う。日本的な私小説に、実は文学の根源的な力が刻まれているという本書の読み方は示唆に富む。
おなじく小説への危機感から、現在を近代文学という枠ぐみ自体の過渡期だと考える高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋)は、聴衆に話しかけるような語り口で近代黎明期の日本文学の問題と現代文学の問題を重ね、ときに戦後文学の問題もまじえながら日本の小説について語っていく。一貫しているのは、近代を論じても現在を論じても、起源の言葉の力を取りもどそうという思考の魅力的なうねりだ。
文学を言葉の問題と考えれば、たぶんメディアとしては小説よりテレビの方が影響力が大きい。しかしテレビの言葉について真剣に批評する人は少ない。小田嶋隆『テレビ標本箱』(中公新書ラクレ)はその数少ない貴重な仕事である。時評的な文章から浮かびあがる、毒をまき散らしつつ空疎になっていくテレビの様子は、文学が辿る運命にも見える。》